昭和49年シーズン、ついにこの日を迎えた。優勝マジックを「2」にしていた中日は10月12日、大洋とのダブルヘッダー第1試合を9―2で圧勝。第2試合のマウンドにはエース星野仙が上がった。
◇10月12日(第2試合)中日球場
大洋 000 001 000=1
中日 010 021 20×=6
(勝)星野仙15勝9敗10S 〔敗〕山下律9勝14敗4S
(本)島谷⑪(坂井)井上⑱(坂井)
九回2死、最後の打者は山下大。2球目、星野仙が振りかぶると超満員のスタンドが一瞬、シーンと静まり返った。強烈な打球がライナーで三塁へ。ジャンプした島谷が捕球。球場は大歓声に包まれた。雄たけびを上げ星野仙と木俣がマウンドで抱き合う。スタンドからファンがなだれ込み、選手と一緒になって与那嶺監督の身体を宙に放り上げた。
「とうとうやったよ! 川上をやっつけたよ。ボク、すごくハッピー!」
帽子を取られた与那嶺監督が叫んだ。
「ボクはあのときから巨人の悪口ばかり言った。巨人でいいのはユニホームだけって。監督になってからも言い続けたよ。言うだけでなく巨人に勝った」
〝あの時〟とは昭和35年、巨人を追い出され、雪辱を誓って中日へ移籍した年のことだ。
昭和26年6月に戦後初の米国籍選手として巨人入りした与那嶺と川上は、良きライバルだった。28年、川上が打率・347で首位打者になれば、翌29年は与那嶺が・361で奪首。2人の争奪戦は32年まで続いた。その「好敵手」が「宿敵」に変わったのは35年オフ、川上が巨人の監督に就任したときだ。川上は与那嶺を中日へトレードに出した。理由は①力の衰え②高年齢③純血主義(外国人選手を入れない)の新体制―。
「冷たい仕打ちをした巨人を必ず見返してやる」と与那嶺は燃えた。
36年4月8日、川上巨人の船出となった開幕戦(後楽園)、1―1の同点で迎えた九回、先頭打者で打席に立った与那嶺は、中村稔の内角ストレートを左翼席へ叩き込んだのである。
47年に中日の監督に就任すると再び「打倒巨人」「打倒川上」に執念を燃やした。1年目対巨人15勝11敗。2年目(48年)16勝10敗。そしてついにV10阻止。悲願達成である。(敬称略)