竹島の韓国主張を覆す大久保利通の認識 「太政官指令」関係なし

鬱陵島は江戸時代に「竹島」「磯竹島」と呼ばれていたが、明治時代になると「松島」と呼ばれるようにもなった(出典:内閣官房領土・主権対策企画調整室HP)
鬱陵島は江戸時代に「竹島」「磯竹島」と呼ばれていたが、明治時代になると「松島」と呼ばれるようにもなった(出典:内閣官房領土・主権対策企画調整室HP)

韓国政府が、日本が竹島(島根県)の領有を否定した証拠だと主張する明治政府の「太政官指令」をめぐり、韓国側の解釈を覆す資料が確認されたことが26日、分かった。指令は「竹島ともう一つの島は日本と関係ない」と記し「竹島」は韓国の鬱陵島を指す。「もう一つの島」に関し、韓国は現・竹島(韓国名・独島)というが、明治政府が指令作成の過程で現・竹島を検討した形跡はない。資料は指令原案を作成した内務省の大久保利通内務卿が「もう一つの島」を現・竹島ではなく鬱陵島と認識していたことを示している。(奥原慎平)

島根県竹島問題研究顧問の藤井賢二氏は今年3月、明治時代の外交官、花房義質の「花房義質関係文書」(都立大学付属図書館所蔵)を分析し、内務省トップの大久保利通は太政官指令が出た当時、指令は現・竹島でなく、鬱陵島を指すと認識していたとみられることを確認した。

太政官指令は、太政官(明治政府の最高行政機関)が明治10(1877)年3月、前年10月に島根県が鬱陵島の地籍(土地台帳)編入について内務省に出した伺をもとに示した見解。内務省は5カ月の検討の上、島根県に回答する前に「版図の取捨は重大な案件」と太政官に伺を出し、太政官は「竹島外ー島、本邦関係これなし」と指示した。

元禄9(1696)年、江戸幕府は日朝交渉を踏まえ、日本人の鬱陵島への渡航を禁じていた。内務省はこの経緯を調査し、太政官も「竹島外ー島」は日本と関係ないとした。

一方、韓国が「外ー島」を現・竹島と解釈する主な理由は、島根県が内務省に出した伺に添付した絵図「磯竹島略図」のためだ。「磯竹島」と「松島」の名称で島々が描かれ、配置や形状から「磯竹島」は鬱陵島、「松島」は現・竹島を指すとみられる。

確かに、江戸時代に鬱陵島は「磯竹島」もしくは「竹島」、現・竹島は「松島」と呼ばれていたが、江戸後期に西洋の地図知識が流入する過程で、鬱陵島の島名に混乱が生じていた。

18世紀後半、フランスと英国の探検家はそれぞれ鬱陵島を測定し、その経緯度がズレていたため、欧州で作成された地図は鬱陵島を指す島が2つ存在する事態となった。長崎のドイツ人医師、シーボルトは天保11(1840)年、2つの鬱陵島をそれぞれ「タカシマ」(=架空の島)「マツシマ」(=鬱陵島)と地図に記載し、鬱陵島は「松島」とも呼ばれるようになっていた。

太政官指令を出した明治政府は「松島」をどう認識していたのか-。

花房義質の「花房義質関係文書」には、明治10年7~8月、大久保と「松島」の早期開拓の必要性を求める長崎県の県令(知事)とのやりとりが収められていた。

県令は「松島」について南北約18キロ、東西約10キロ規模、全体に巨木が生えている島だと説明した。ただ、現・竹島は断崖絶壁で植生に乏しく、総面積も0・2キロメートル四方に過ぎない。

県令に開拓の必要性を唱えたロシア極東ウラジオストク在住の日本人外交官は「松島」が長崎とウラジオを結ぶ航路上にあると訴えており、位置関係上「松島」は鬱陵島だったとみられる。

大久保は同年8月、「松島」について、太政官指令のもととなった明治9年の島根県の伺を挙げ、17世紀末の日朝交渉で鬱陵島渡航が禁じられたことから「本邦との関係はないものと決定」したと県令に回答した。この5カ月前に出された太政官指令は「磯竹島略図」の「松島」(現・竹島)を対象としたものではなかったことがうかがえる。

そもそも、磯竹島略図など島根県の添付資料は、太政官指令の根拠ではなく、行政上の効力が生じないとの見方がある。太政官指令は、島根県の伺に対してではなく、内務省の伺の追認だからだ。内務省の伺には、鬱陵島である「竹島」のみが本文に記載され、「松島」(現・竹島)の記述はない。

韓国は、太政官指令を明治政府が竹島を放棄した証拠だと強調し、小学校の教科書などにも記載しているという。藤井氏は産経新聞の取材に、「大久保の回答によって太政官指令は磯竹島略図の『松島』(現・竹島)を対象にしていないことが裏付けられる。指令をめぐる韓国の主張の前提が崩れた」と語っている。

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