小林繁伝

「打倒巨人」の思いをぶつけた3人 虎番疾風録其の四(36)

「打倒巨人」に燃える(右から)与那嶺監督、星野、近藤投手コーチ=1974年、中日球場
「打倒巨人」に燃える(右から)与那嶺監督、星野、近藤投手コーチ=1974年、中日球場

昭和49年、巨人のV10を阻止したのは中日だ。エース・星野仙一、投手コーチ・近藤貞雄そして監督・与那嶺要―3人の強烈な「打倒巨人」への思いが、20年ぶりの優勝へと結びついたのである。

星野の「打倒巨人」は有名である。43年のドラフト、巨人から1位指名されると信じていた星野は、巨人の「島野修」指名に「星と島を間違ったんじゃないのか」という名言を残した。

星野は巨人のスカウト(明大OB)から「ウチは1位で田淵を指名するが、田淵が先に取られたらお前を指名する。そのときは頼むぞ」と言われていた。

「信じ込んでいたから悔しかった。これがプロの世界か―と歯ぎしりする思いだった。49年は巨人戦以外は力を抜いて遊んで投げていたよ」

49年、星野は先発、リリーフにと投げまくり15勝9敗10S。「最多セーブ」と「沢村賞」に輝いた。特に巨人戦には半分の14試合に登板(先発5、救援9)して3勝3敗4S。「ローテーションなどお構いなしに投げた」という。

星野の執念も凄いが、それを許した近藤コーチにも、星野以上に巨人への〝恨み〟があった。

太平洋戦争が終わりプロ野球が再開となった昭和21年、巨人に復帰した近藤はチーム最多の23勝をマークした。だが、その年のオフ、愛媛・松山で行われた秋季キャンプで事故に遭った。松山市内の街中を歩いているとき、進駐軍の車にはねられそうになり転倒。その際、ガラスの破片で利き腕である右手中指の腱(けん)を切断する大けがをしてしまったのだ。

傷は治ったものの、中指は第2関節から先が曲がったまま。思うような投球ができず22年シーズンは10試合に登板(2敗)しただけに終わった。そんな近藤を巨人はあっさりとクビ(自由契約)にした。巨人に捨てられた〝悔しさ〟が中日へ移籍した近藤のバネになった。

「必ず巨人を見返してやる!」という執念で不自由になった指を克服。人さし指、中指、薬指の3本を立てて投げる変化球「パームボール」を生み出した。

「運命」とはおもしろいものだ。そんな近藤を「投手コーチ」として招聘(しょうへい)した与那嶺監督にもまた、強烈な「川上憎し」の思いがあった。「打倒巨人」×3である。(敬称略)

■小林繁伝37

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