歴史の交差点

殿様と酒 神田外語大学客員教授 山内昌之

「鯨海酔侯」を自称した山内容堂(国立国会図書館HP「近代日本人の肖像」から)
「鯨海酔侯」を自称した山内容堂(国立国会図書館HP「近代日本人の肖像」から)

「斗酒(としゅ)なお辞せず」という言葉がある。底なしに酒を飲み干せることだ。私は、大相撲の或(あ)る親方に「現役時代は一晩で1斗(10升)ほども飲みましたか」と尋ねたことがある。酒豪の親方は、「いやあ、さすがに1斗は」とはにかんで、5、6升かなあと破顔一笑した。ところが、江戸時代には数日で5斗も飲んだ殿様がいた。幕末大名きっての酒徒、土佐の山内容堂(豊信(とよしげ))である。歴史学者、家近良樹氏の最新著『酔鯨 山内容堂の軌跡』(講談社現代新書)は、容堂と土佐藩の高い政治力とその挫折を描いた力作である。容堂の成功と失敗には酒がつきまとう。これは従来も知られていたが、氏はそれを人間関係の複雑なアヤの中で分析している。元治元(1864)年正月に一橋慶喜・島津久光・松平春嶽らとの参与会議(朝廷の政務を決定する会合)へ出席するために、容堂が土佐から京都に向かう途中のことだった。

容堂は船中あまりに寒いので酒を飲んだが、酔えずに伏見へ着くまで5斗を飲み干したというのだ。家近氏は、信じがたい酒量ながら当人が「五斗先生」と号しているので、まんざら噓でもないと指摘する。私も妙に納得した気分になった。

容堂は、10歳年長の久光とは気質も思考法も違っていた。久光はあまり酒が飲めないたちだったらしい。真面目一方の堅物と破天荒な粋人では、ソリも合わなかった。慶喜は容堂ほど飲まないが、何かで政治芝居を打つとか、わざと相手を怒らせるとか、時には酒をからめることもある。期待の参与会議はあっという間につぶれてしまった。各自の思惑が違っていたからだ。一度開いた横浜の鎖港に賛成するのは容堂や慶喜であり、開港貿易を主張するのは久光である。孝明天皇の強い意志は鎖港にある。家近氏の本を読むと、決裂の小道具になったのは酒だという気がしてならない。参与会議とその前後に、容堂は酒気を帯びて激烈な論をよく主張した。しかし、「所論至当なり」と参与の伊達宗城(むねなり)(宇和島藩)に褒められるほど、酩酊(めいてい)しても理屈はしっかりしていた。とはいえ久光は納得しない。次の日、2人は長州戦争の処理をめぐって又(また)もや対立する。今度の容堂は酒が入っても大声を出すだけだ。会議は成果を出せず、酒宴のみ開いて無益という有様(ありさま)になった。容堂を引き立てた盟友の松平春嶽も呆(あき)れたのである。

やや経(た)って中川宮邸で容堂欠席のままに、慶喜と久光との間に「容堂の酔劇の再演」が繰り広げられる。慶喜は浴びるように酒を飲み、宮を薩摩の言いなりと決めつけ、久光を春嶽や宗城ともども「天下の大愚物」と嘲笑した。慶喜と容堂は、酒が入ると怒りが頂点に達して相手を追い詰める言葉がすんなりと出てくる。生理的に久光や薩摩藩を嫌いなのだ。つまり2人は政治家としてもウマがあったのである。とにかく容堂が酒を抑えて久光嫌いを腹に収めるのは不可能に近い。「日日 我の酔うこと 終に涯(はて)無し」とは南宋の詩人、陸游(りくゆう)の作である。まるで容堂のためにある詩文ではないか。

(やまうち まさゆき)

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