入団2年目の昭和49年、小林は開幕から1軍に定着し8勝5敗2S、防御率2・42の好成績をあげた。
G番記者たちからは〝堀内の後継者〟とみられていた。当時、巨人の担当だった東京スポーツの中村康博先輩はこう回想した。
「身体が細くてなぁ、みんなから〝ヤセ〟とか〝骨〟って呼ばれていたよ。でも、気の強い男で『この体でもノンプロ(全大丸)時代は完投で連投したこともあるんです!』といつも、口をとんがらせて怒っていた」
リリーフで2勝を挙げていた小林に5月26日の広島戦「先発」が命じられた。プロ初先発である。当時、広島は別当薫監督の後を受け森永勝也が監督に就任。Bクラスに苦しんでいた。それでも打線は強烈。この時のスタメンは―
①深沢(右)②上垣内(三)③山本浩(中)④衣笠(一)⑤三村(二)⑥ヒックス(左)⑦水沼(捕)⑧木下(遊)⑨大石(投)
◇5月26日 広島市民球場
巨人 000 201 001=4
広島 000 000 000=0
(勝)小林3勝1敗 〔敗〕大石2勝2敗
(本)王⑬(大石)
小林は一回、いきなり先頭打者・深沢の右ひじにぶつけた。並の投手なら腕が縮こまるところだが、小林は「あれは避けられる球。だから気にしなかった」と言ってのけた。
外角への速球と大きなカーブ。切れのあるシュートで広島打線を翻弄(ほんろう)。5安打散発7奪三振1死球。プロ初先発を完封で飾ったのである。
実は好投の裏には〝神様の叱咤(しった)〟があった。初勝利を挙げた翌日4月21日のこと。小林は川上監督から「監督室に来るように」と呼ばれた。きっと褒めてもらえるんだ…。そんな気持ちで部屋に入った。とたん―
「こら、貴様! 一つ勝ったぐらいでチャラチャラしとるんじゃないぞ。馬鹿者が!」
小林は直立不動で震え上がった。その日は中日2回戦(後楽園)が雨で中止となり、練習を終えた小林は先輩たちに翌日の切符の手配を頼まれ、チケットを持って球場受付あたりを行ったり来たり。それを川上監督はみていたのだ。
小林が「エース」への歩みを始めた。(敬称略)