さて、小林繁に話を戻そう。年が明けた昭和49年1月11日、入団2年目の小林の背番号が「40」から「19」に変わった。変更は小林だけではない。
矢沢 正捕手 「41」→「12」
玉井信博投手 「47」→「24」
河埜和正野手 「61」→「29」
淡口憲治野手 「55」→「35」
期待の若手にレギュラー番号が与えられたのである。1年目の小林は9月に1軍に昇格し、わずか6試合(11回⅓)にリリーフで登板しただけ。南海との日本シリーズでは登板なし。
それは48年10月11日、阪神とのあの〝二番勝負〟で、10―10の同点で九回のマウンドに上がり、見事に7球で抑え切った好投への〝ご褒美〟といわれた。もし、あの試合に負けていれば、川上巨人のV9はなかった。だが、その変更にナインの反応は複雑だったという。
実は「19」は前年(48年)3月に急死した湯口敏彦投手がつけていた背番号。湯口の名は『湯口事件』として知る人も多いだろう。岐阜短大付のエースとして45年、甲子園春夏出場。箕島の島本講平、広陵の佐伯和司と「高校三羽烏(がらす)」といわれ、同年秋のドラフトで1位指名で巨人に入団した。
ひじを痛め2軍スタートとなった湯口は2年目の47年11月23日、「ファン感謝デー」に参加した。感謝デーで行われる紅白戦は1軍選手が主体。2軍の湯口は「出番はないよ」と言われていた。そのため、前日の2軍の打ち上げ会で痛飲。ところが、急遽(きゅうきょ)予定が変わり、若手主体の紅白戦に。ほろ酔い状態でマウンドに上がった湯口は打者一巡、2ホーマーと打ち込まれ、川上監督や中尾ヘッドコーチから「2年間、無駄飯を食ってきたのか!」と厳しく叱責された。
当時、少し鬱病気味だったのが、この叱責で悪化。湯口は入院治療を受けた。一時、症状が回復し48年の宮崎キャンプ(都城)に参加したがまた発症。病院に戻った。そして3月22日、ベッドで死んでいるのが発見された。
小林と湯口は昭和27年生まれの同い年。48年のキャンプでルーキーの小林は湯口から「プロは厳しいぞ」とアドバイスを受けたという。
「生意気かもしれませんが、湯口の分まで投げるつもりです」
小林は背番号「19」を受け継いだ。(敬称略)