乗客106人が死亡した平成17年4月のJR福知山線脱線事故で負傷し、3年半後に自ら命を絶った息子の無念を思い、事故の悲惨さを訴え続けてきた母親が昨年10月、静かにこの世を去った。残された人の寂しさを詞にまとめ、母親が歌を作ったのは、その半年前の桜の季節のこと。ゆかりのある人たちは今年もこの曲を歌い継ぎ、2人の遺志を後世に伝えていく。
《あれからいろいろありました/なみだなんかみせたくない/でも悲しいことは悲しいと》
今月8日、兵庫県宝塚市の岸本早苗さんの自宅。主を失い、ひっそりとした室内に、早苗さんが作詞した合唱曲「さくらの涙」の歌声が響いた。
昨年10月、77歳で死去した早苗さんのお別れの会。20年10月に亡くなった息子の遼太さん=当時(25)=の同級生や、遼太さんが通ったピアノ教室講師の熊谷啓子さん(60)らが参加し、遼太さんの遺影に手を合わせた後、故人を思って合唱した。
17年4月25日。この日に22歳の誕生日を迎えた遼太さんは大学へ向かうため、事故車両の4両目に乗っていた。命は助かったが、首などを負傷。凄惨(せいさん)な光景が頭から離れず心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症、事故の1年後に不慮の事故で父親を亡くしたことでさらに症状が悪化し、「なぜ自分だけ助かったのか」と罪悪感にさいなまれた末、自ら命を絶った。
《スピード優先で安全がないがしろにされてきた》
《今でもJRの対応に疑問を持っている》
遼太さんは生前、自身のブログでJR西日本への怒りを吐露していた。家族でただ一人残され、途方に暮れていた早苗さんだったが、遼太さんの苦悩を知り、生きた証しや事故の記憶を伝え続けなければ、と決意した。
JR西が事故現場に犠牲者名を刻んだ慰霊碑を設置すると聞いた際は遼太さんの名前も加えるよう求め、慰霊施設に追悼の桜を植えたいとも要望した。
いずれも受け入れられなかったが、自宅の庭で育ててきた桜を「私が死んでもみんなに見てもらえるように」と、遼太さんの十三回忌の令和2年10月に市に寄贈。近くの公園に移植された。花が好きだった息子の姿と重ね、「遼ちゃん桜」と呼んで大切に育ててきたその木を眺めながら、早苗さんは「新しい場所で根を張り、天国に向いて咲いてもらいたい」と語っていた。
「遼ちゃん桜」とともに事故の記憶を後世に伝えるものとして、早苗さんが詞に願いを託した「さくらの涙」は昨年4月に完成。それから半年後の同年10月、早苗さんは病気で亡くなった。遼太さんの命日の翌日だった。
先のお別れの会で、参加者らは長く孤独な闘いを続けてきた早苗さんに、いたわりの言葉をかけた。
「さくらの涙」のメロディーを作った熊谷さんは「早苗さんもいなくなり、事故の悲劇を知る当事者がまた一人いなくなった。これからは早苗さんの残した曲を通して、自分ができる限りのことを伝えていきたい」と話し、たくましく幹を伸ばす桜の木を見上げた。(鈴木源也)