モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

(125)「死んだ知識」に操られたプーチン大統領

ノーベル文学賞を受けたポーランドの詩人、シンボルスカ。同国の苦難の歴史は教訓に満ちている(共同)
ノーベル文学賞を受けたポーランドの詩人、シンボルスカ。同国の苦難の歴史は教訓に満ちている(共同)

いま見るべき「カティンの森」

1939年9月1日、ドイツ軍はポーランド侵攻を開始する。第二次世界大戦の始まりだ。同月17日には独ソ不可侵条約の秘密条項(東ヨーロッパをドイツとソ連の勢力圏に分割する)に基づき、ソ連がポーランドになだれ込む。東へ逃げる人々と西へ逃げる人々がかち合う橋の場面からその映画は始まる。ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督(1926~2016年)が2007年に制作した「カティンの森」である。

世界中どの国にも苦難の歴史はあると思うが、ヒトラーのドイツ軍とスターリンのソ連軍の挟み撃ちにあい、その後ソ連の衛星国にされたポーランドの人々の苦難は想像に余りある。

侵攻を受けたときポーランド政府は、ドイツに宣戦布告していたフランスとイギリスの援軍に期待したが見殺しにされ、首都ワルシャワはあっけなく陥落する。ドイツの侵攻理由は、ポーランド国内で「虐待されている」少数派たるドイツ系住民の保護だった。歴史は繰り返す。

一方、東部を占領したソ連軍はポーランド軍を解体し、全将校およそ2万人を捕虜として収容所送りにする。事件はその直後に起こる。1940年春、全将校がカティンの森を含む5カ所で銃殺される。抵抗できない捕虜を無慈悲に処刑した理由は、スターリンの恨みにあったともいわれている。第一次世界大戦直後に勃発したポーランド・ボルシェビキ(赤軍)戦争で苦杯を喫した恨みである。ポーランド将校の多くはその戦争に従軍していたのだ。もちろんポーランド軍の再建を困難にする狙いもあった。

その後、独ソ不可侵条約を破ってソ連領に侵攻したドイツ軍が43年、大量虐殺の情報をキャッチしてカティンの森の現場を発掘すると、頭を撃ち抜かれた4千を超える遺体が発見された。ドイツがこの事実を公表すると、ソ連はすぐさま、ナチスの犯行をソ連に押しつけていると反論した。歴史は繰り返す。

大戦後、ソ連の衛星国にされたポーランドと東ドイツでは、カティンの森事件はタブーとなる。西ドイツも敗戦国の弱みもあってソ連の責任を追及するのを控えた。この事件が明るみに出るのは、ゴルバチョフ書記長の時代になってからだ。グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)を掲げたゴルバチョフ政権が自国の犯行と認め、ポーランドに謝罪したのは90年4月のことだった。

映画の後半、無抵抗の将校を森に掘った穴の前に立たせ、その後頭部を次々と銃で撃ち抜く場面は、凄惨(せいさん)のひと言だ。おそらくいまこの時にも、ロシア軍が制圧したウクライナのそこかしこで同じようなことが起きているはずだ。父をカティンの森で殺害されたワイダ監督が80歳にして撮ったこの作品は、いまこそ直視すべきだ。アマゾンのプライムビデオで見ることができる。

今月上旬、ポーランドのモラウィエツキ首相は、ロシアが全体主義のファシズム国家であり、ウクライナにおける行為は「ジェノサイド(大量虐殺)」だと言い切り、同時にドイツとフランスの対応を非難した。ドイツのショルツ首相には「今聞くべきは、ドイツ企業の声ではない。罪のない女性や子供の声だ」と、フランスのマクロン大統領には「あなたはプーチン大統領と何回交渉したのか。何を成し遂げたのか。犯罪者とは話し合いより、戦うべきだ。ヒトラーやスターリン、ポル・ポトとも交渉するのか」と。

ポーランドの歴史を知れば、むべなるかなと思う。国連によると、4月5日の時点で420万人以上がウクライナを離れ、250万人をポーランドが受け入れているのだ。自国で起こった悲劇がウクライナで繰り返されていると共振し、自分たちにできることをしようとするポーランドに、私たちはもっと注目していいはずだ。

話し合うより戦うべきか?

いま、96年にノーベル文学賞を受けたポーランドの女性詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカ(1923~2012年)の『終わりと始まり』(沼野充義訳)を読んでいる。次に掲げるのは「憎しみ」という詩の一節だ。

《宗教やら何やらで/人はスタートの姿勢をとり/祖国とか何とかで/人は「よーい、どん!」で駆けだしていく/はじめは正義だってがんばっているのだが/やがて憎しみが勝手に突っ走るようになる/憎しみ 憎しみ/その顔は愛の恍惚(こうこつ)に/歪(ゆが)んでいる》

彼女は個として不条理な世界と向き合い、たおやかな言葉で個に語りかける。

「犯罪者とは話し合いより、戦うべきだ」というモラウィエツキ首相の言葉に深くうなずいた私は、彼女の詩を読んで立ち止まらざるを得なくなる。

同書の巻末にはノーベル文学賞記念講演が収められている。ここで彼女は、この世界の悪党、独裁者、狂信者、煽動(せんどう)家たちが熱心に仕事を遂行するのは、彼らに「わたしは知らない」という謙虚な認識が欠けているからだと指摘したうえでこう述べる。

《彼らは知っているから、自分の知っていることだけで永遠に満ち足りてしまう。彼らはそれ以上、何にも興味を持ちません。興味を持ったりしたら、自分の論拠の力を弱めることにもなりかねないからです》

彼女こそモンテーニュの正統の後継者だ。モンテーニュは『エセー』第2巻第12章「レーモン・スボン弁護」にこう記している。

《人間の病は、「おれは知っているぞ」という思いあがりである》(関根秀雄訳)

裁判官だった彼は、職場で同僚たちが、思い上がりによってろくでもない判決を言い渡してきたことを見聞してきた。37歳で職を辞し、自分の城に籠もって『エセー』を書き始めた彼は43歳のとき、中央に均衡を保ったてんびん、周囲に作製年の「1576」、彼の年齢である「43」、ギリシャ語の「エペコー」(私は判断を留保する)を刻印した銅製のメダルを作る。「エペコー」こそ、彼の思想の核となる「クセジュ」(私は何を知っているのか)の元になった言葉だ。

彼女の言葉を続けよう。

《どんな知識も、自分のなかから新たな疑問を生みださなければ、すぐに死んだものになり、生命を保つのに好都合な温度を失ってしまいます。最近の、そして現代の歴史を見ればよくわかるように、極端な場合にはそういった知識は社会にとって致命的に危険なものにさえなり得るのです》

彼女の危惧はいま現実のものとなった。「死んだ知識」に操られたプーチン大統領の「核の使用も辞さない」という恫喝(どうかつ)を受け、西側の指導者たちはその対応に右往左往している。ウクライナ軍に武器を供与すると同時に、ブーメラン効果を覚悟のうえで経済制裁を続けてロシアの自壊を待つのか、それとも…。いまこの瞬間にも、狂信者によってウクライナの人々は殺戮(さつりく)されている。

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