話の肖像画

谷垣禎一(13)「乱」の直前、加藤さんと断絶

加藤紘一元自民党幹事長(左)と行動をともにした =平成18年7月
加藤紘一元自民党幹事長(左)と行動をともにした =平成18年7月

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《平成12年夏、そごう問題をめぐり加藤紘一元自民党幹事長と対立した谷垣さんは、所属していた宏池会(現岸田派、当時は加藤派)の会合を数カ月間、欠席した》


「やってられるか、こんなとこで!」。そう思った私は、たんかを切りました。「加藤先生がそういう考えなら、それでおやりになったらいかがですか。私はしばらく宏池会の会合には出ません。派内の役職も全て返上いたします」。そう言って、家に帰ったのです。

そうしたら、当時座長(派のナンバー2)だった堀内光雄元通産相から電話がかかってきました。堀内さんは「短気を起こすなよ。ちょっと出てこい」と言って私を呼び出し、一席設けてくれたのです。そして「厳しいときだから、いろんな判断があるさ。お前の判断と加藤さんの判断が違うこともあるだろう。だけど、もう宏池会には出てこないとか役職返上だとか、そういう穏やかでないことはやめろ」と私を諭しました。

私もその場では「堀内先生がそこまでおっしゃるなら、先生にげたを預けます」と答えましたが、実際にはそれから数カ月間、派閥の会合には出ませんでした。夏休みは家族で欧州旅行に出かけ、スイスのリゾート地に行ったり、ドナウ川を船でさかのぼったりして、のんびり楽しく過ごしていたのです。


《11月、断絶していた加藤さんとの関係が、風雲急を告げる政界の動きで変化し始める。加藤の乱だ。森喜朗内閣の支持率が低迷する中、11年9月の総裁選で小渕恵三元首相に敗れ、非主流派となっていた加藤さんは「ポスト森」の最有力候補とみられていた。座して待っていても首相の座が回ってきそうな状況だったが、加藤さんは野党が提出する内閣不信任決議案に賛成する構えを見せる。加藤さんとともに総裁選に出馬した近未来政治研究会(現森山派)会長の山崎拓元副総裁もこれに同調し、両派による倒閣運動が始まった》


加藤さんとしばらくコンタクトを取っていなかった私は、旅行から帰ってきたらバタバタと動き出して、何が起こったのかわからないという感じでした。でも、長い間お世話になった加藤さんだから、何だかよくわからないながらもついて行ったのです。加藤派にいた川崎二郎元厚労相は、そんな私を心配していたのでしょう。時々「加藤さんは自民党を割るところまで考えているかもしれないぞ」と言うことがありました。

私は「そういうことはあらかじめ大きな方向性の認識を一致させておかないとだめじゃないか」と言い、加藤さんを呼んで派の仲間と話を聞きました。しかし加藤さんは、同調者の前でも「党を割る」なんてことは言わないのです。「ぎりぎりまで追い詰める」としか言わない。

今思えば、加藤さんは「場合によっては党を割る必要がある」という切羽詰まった気持ちだったのではないか。全部かはわかりませんが、半分ぐらいはそういう気持ちがあったのではないかと思います。橋本龍太郎政権でバブル崩壊後の処理を内閣主導でやる手法を整理し、加藤さん自身も幹事長として役割を果たし、せっかく改革路線を敷いたのに、小渕、森と内閣が代わるにつれてそれが薄れていき、「これじゃあな」という思いがあったのだと思います。

加藤さんが実際にどこまで考えていたのか、私の考えていることが加藤さんの真意なのかはわかりません。でも、ただ漠然とあれだけの行動に出たわけではないと思うのです。


《党内の攻防は10日間余り続いた。加藤さんは強気な発言を繰り返して世論の関心を集め、「森おろし」への期待を高めた。一方、当時の野中広務幹事長ら党執行部は猛烈な切り崩しを行い、加藤さんを追い詰めていった》(聞き手 豊田真由美)

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