格物(かくぶつ)の天地造化におけるは却って易く 人情世故におけるは却って難し 『省諐録(せいけんろく)』
水戸学がこれからの日本のあり方を示す中、朱子学もまた新たな動きを起こしていた。幕末から明治にかけ日本は西洋文明を本格的に摂取し始める。
外国の言葉で外国の論文を読み、外国の研究手法を用いるのでは、永遠に後追いから脱却できず、いきおい国際社会でも独自性を発揮できないものである。そうした文化的植民地の陥穽(かんせい)に落ちず、文明の独自性を死守するには単に翻訳するばかりではなく、その学問を咀嚼(そしゃく)して日本人の文脈で理解、応用して新たな発見を生み出さねばならない。こうした姿勢こそ、現代日本の科学者によるノーベル賞受賞の基盤となった。
この仕事は、西洋に気後れすることなく、むしろ日本の学問がそれと同等か上の水準であるとの確信がなければできない。明治時代、朱子学や陽明学に基盤を持つ西周(にしあまね)や中村正直(まさなお)、西村茂樹らいわゆる洋学者が生み出した「哲学」「文学」「心理」「物理」「化学」「幾何(きか)」といった言葉は今日まで使われる。
いずれも儒教の経書を典拠に、朱子学の理論を応用して受容されていった。後に「和魂洋才」という言葉で表現されたこの姿勢の源流に、佐久間象山(1811~1864年)がいる。「東洋道徳、西洋芸術」という言葉を提唱し、当時第一級の洋学者でありながら、幕府直轄の昌平坂学問所きっての秀才と謳(うた)われた朱子学者だ。
松代藩(現長野県)藩士であった象山は、江戸に出て、昌平坂学問所の学頭であり、かつ朱子学と陽明学を学んだ当時の大儒学者、佐藤一斎に師事した。象山は朱子学を学ぶ傍ら、同門の陽明学者で、後に備中松山藩(現岡山県)の財政を立て直し、西洋式軍備を整え、老中となった藩主、板倉勝静(かつきよ)を補佐して維新期の幕政をサポートした山田方谷(ほうこく)と交流する。方谷と象山は激しく互いを批判しつつも互いを認め合い、理論と実践の力をつけていく。