話の肖像画

谷垣禎一(11)発端は加藤さんの総裁選出馬

自民党総裁選の街頭演説会に臨む(左から)山崎拓元副総裁、加藤紘一元幹事長、小渕恵三元首相=平成11年9月
自民党総裁選の街頭演説会に臨む(左から)山崎拓元副総裁、加藤紘一元幹事長、小渕恵三元首相=平成11年9月

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《平成11年9月、所属していた自民党の派閥「宏池会」(現岸田派)会長の加藤紘一元幹事長が、盟友で「近未来政治研究会」(現森山派)会長の山崎拓元副総裁とともに総裁選に立候補した。結果は、現職の小渕恵三元首相(党総裁)の圧勝。加藤さんは落選を織り込み済みで、政策論争による「さわやかな戦い」を仕掛けたつもりだったが、無投票再選を目指していた小渕さんは激怒し、総裁選後の人事で加藤派を冷遇した。これが12年11月の加藤の乱につながっていく》


小渕さんに「俺を追い落とそうとしたじゃないか」と激怒された加藤さんは、「いろいろ誤解がある」みたいなことを言っていました。加藤さんと山崎さんがあのとき、どういう話をしていたかは知りませんが、当時の加藤さんの雰囲気からして、「小渕さんを引きずりおろしてやろう」なんて気持ちはなかったと思います。

加藤さんはあのとき、勝負をかけていなかったのではないか。事実、忠実な弟分の一人だった白川勝彦元自治相は大いに不満で「ほどほどにやれみたいなことを言われたって何をやっていいのかわからない。主張を明確にすればいいなんて学生みたいなことをやってどうなるんだ」と怒っていました。


《一方で、加藤さんが小渕内閣に不満を抱いていたのも事実だった。小渕内閣は、行政改革など「6つの改革」を掲げた橋本龍太郎元首相の退陣後に発足し、橋本内閣が進めた経済構造改革を積極財政へと明確に転換した。幹事長として橋本さんの改革を支えた加藤さんは財政再建を重視しており、小渕政権による転換に異を唱えていた》

橋本さんと一緒に改革に取り組んだ加藤さんは、内閣の権限を強くして、バブル崩壊後の不良債権を大胆に整理していくべきだと考えていました。今までばんばんやってきたものを、ある程度抑えていかざるを得ないという発想だったと思います。

ところが、小渕内閣になったら、橋本さんとやってきた方向が変わってきた。橋本内閣で実行した消費税率の(3%から5%への)引き上げがマイナスに効いてきたことなどもあり、不況が深刻化して、小渕さんは積極財政にかじを切りました。それに対して、加藤さんは非常に不満だったようです。「あんな大盤振る舞いをやらせてどうなんだ」とよく言っていました。

総裁選に出馬したのは、もう少し経済構造改革の路線に戻して、バブル崩壊後の処理を明確にやるべきだと考え、それを天下に訴えたいという気持ちからではないでしょうか。そうすることで、党内に多様な考え方があることを示そうとしたのだと思います。


《12年4月、小渕さんが脳梗塞で緊急入院すると、内閣総辞職に伴い、幹事長だった森喜朗元首相が後継の首相に就任した。森内閣の支持率が低迷する中、非主流派の加藤さんは「ポスト森」の最右翼として存在感を高めたが、不満は一層募っていった》


そうはいっても、小渕内閣のときはまだ不満を言うぐらいの話だったのです。後にあそこ(加藤の乱)までいった背景には、森内閣になって全体の改革色が薄れ、不満が非常に強くなったことがあると思います。

総裁選での加藤さんは、やや書生っぽかったかもしれない。白川さんの言うことももっともなんです。私よりけんか好きな白川さんですから(笑)、彼なら「戦うときは徹底的に戦え」と思うでしょう。

一方で、政権を握っていた小渕さんが「追い落とそうとした」と受け取るのもわかる。仮に加藤さんが出馬せず、小渕さんも「加藤は俺を支持してくれる」と思っていたら、首相の座が森さんに行くことはなかったのかもしれません。今考えてみたって、わからないことですけどね。(聞き手 豊田真由美)

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