正論5月号

五族協和を目指した〝幻の軍隊〟満洲国軍 特集「満洲国再考」 産経新聞編集委員 喜多由浩

奉天ヤマトホテルの記念碑=中国・瀋陽(喜多由浩撮影)
奉天ヤマトホテルの記念碑=中国・瀋陽(喜多由浩撮影)

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満洲国軍は、陸海軍と航空部隊を備え、最盛期の兵力は約十五万人を誇った。満洲国の建国理念「五族協和」を具現化する日、満、漢、鮮、蒙の五族で構成され、満洲皇帝・溥儀の弟、溥傑(満)や、満洲事変の際に蒙古独立軍を組織したカンジュルジャップ(蒙)、後に韓国大統領になった朴正煕(鮮)らも所属していた。だが、高い理想も、終戦時には「同床異夢」というべき現実の前に砕け散ってしまう。わずか十四年という短い歴史を残して〝うたかた〟のように消えてしまった「幻の軍隊」の足跡を追ってみたい。

寄せ集めでの発足

満洲国軍は、昭和七年三月の満洲国建国後、ただちに創設されている。当初の主力は、満洲国への恭順の意を示した、(張学良配下の)旧東北軍勢力を中心として、満洲の軍閥、馬賊の私兵、日満混合の靖安遊撃隊らによる〝寄せ集め部隊〟であった。国軍を統括する軍政部(後に治安部、軍事部)総長は、北部黒竜江省を本拠とする馬賊出身の馬占山に決まったが、一度も姿を見せることなく反旗を翻す。同年五月から始まる馬占山討伐作戦には、日本の関東軍とともに満洲国軍が出陣した。馬の後任の軍政部総長には、やはり馬賊出身の張景恵(後に、満洲国国務総理)が就いている。

満洲国建国の経緯からも、国軍創設当初から日本が深く関わっていたのは当然のことであったろう。同年九月の「日満議定書」では、満洲国の国防について、日満両国が「共同防衛」にあたること、領内への日本軍の駐屯を認めることがうたわれている。関東軍の補助的な立場に置かれた満洲国軍は当初、領内の匪賊掃討や警察的業務を中心にしていたが、八年の熱河作戦には日本の関東軍とともに参加。十二年からの日中戦争、十四年のノモンハン事件などの対外戦にも加わることとなる。十三年から終戦までは、中国と国境を接する西南地域をめぐって、八路軍(共産党軍)との間で死闘を繰り広げた。

関東軍は満洲国軍の建軍時(七年)から、大佐をトップとする軍事顧問団を派遣し、指導にあたったが、とりわけ急がれたのが士官(満洲国軍の呼称は軍官)の養成であった。翌八年には奉天(現中国・瀋陽)に、「中央陸軍訓練所(中訓)」が創設され、折からの満洲ブームもあって、日本や統治下の朝鮮からも応募者が殺到する。翌九年卒組は、三百人の採用枠に対し、二十倍の約六千人の志願者がいたという。中訓は、九期生まで送り出し、戦後に韓国首相となった丁一権(五期)や、朝鮮戦争の英雄、白善燁(九期)も同校から巣立っている。

十四年には新たに、満洲国の首都・新京(現長春)に「満洲国陸軍軍官学校」が開設された。陸軍大学にあたる「陸軍高等軍事学校」も設けられ、将官養成のシステムを整えていく。新京の軍官学校には、五族のうち、日、満、漢、鮮の四族が入校する。独自の戦闘法や風俗を持つ蒙だけは別途、満洲蒙古の地(興安嶺)に「興安軍官学校」(十一年創設)がつくられた。満洲国軍内には、蒙の騎兵を主体とする興安軍ができ、先のカンジュルジャップらが指揮を執った。

余談めくが、時事通信解説委員長や日銀副総裁を務めた藤原作弥の父親は、この学校の国漢の教師(文官)だった。終戦時、ソ連軍侵攻前に藤原一家が〝間一髪〟で同地を脱出できたのも学校を通じて軍の情報をいち早く入手できたためである。一方、藤原の国民(小)学校の同級生には逃げ遅れて、「葛根廟事件(ソ連軍戦車部隊によって日本の避難民が虐殺された事件)」の犠牲者となった人も少なくない。藤原は、〝生き残った者の苦悩〟を抱えることになる。

一方、新京の軍官学校では、「日」のみ、採用方法が違っていた。満洲国軍としての独自採用は行わず、日本の陸軍予科士官学校を受験した生徒の中から〝廻し合格〟の形で採用したのだ。日満一体の方針と、より優秀な人材を確保する狙いがあった、とされる。

希望すらしていない満洲国軍へ廻された生徒たちは不満を抱えながらも、ほとんどが海を渡った。最初の二年(予科)を満洲(新京)で過ごした後、本科は日本の陸士や航空士官学校、経理学校へ進むことができるシステム(軍医、獣医のみは本科も満洲で学ぶ)に救いを感じたからである。本科を終えた後は、隊付きを経て満洲国軍少尉に任官すると同時に日本軍の予備役少尉となった。

興味深いのは、「鮮」の扱いの変遷であろう。当初は、満系(満・漢)と同じく、現地採用方式だったが、途中で、日系と同じ扱いとなり、採用方

法も日本の陸軍予科士官学校受験生から選ばれるようになった。これは「鮮」の生徒から「われわれも日本人だ。『日系』として扱ってほしい」とクレームがついたからである。なぜならば、「鮮」は満系から〝見下される〟ことが多かった。だが、日系と同じ扱いになれば逆に彼らを見下すことができる、というわけだ。

「鮮」で同校を出たのは約五十人。先の朴正煕(高木正雄を名乗っていた)は二期生として入っている。朝鮮で師範学校を出て教師をしていた

朴は受験時、すでに制限年齢をオーバーしていたが、熱望ぶりが特別に認められ、新聞記事になったほど。朴は、成績優秀者に許された本科の日本陸士進学を果たす。終戦時は満洲国軍中尉だった。

終戦で辛酸なめた日本人

満洲国軍の日系軍官は、終戦までに約四千人を数えた。五族の中での「日系優位」は暗黙の了解であったが、逆に、他族の上官に仕えた日本人もいる。国軍の五族は、民族意識や風俗などの違いを飲み込んで同じ部隊で戦ったが、終戦前後には、その矛盾が一気に吹き出すことになってしまう。


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【特集】「核」を議論せよ

総理の責任として決断すべきこと 元衆議院議員 西村眞悟

「力の不均衡」が戦争を招く 麗澤大学客員教授・元空将 織田邦男

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