話の肖像画

谷垣禎一(9)加藤さんに教わった「選挙の原点」

出陣式で激励の花束を受け取った =昭和58年7月
出陣式で激励の花束を受け取った =昭和58年7月

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《前尾繁三郎元衆院議長と谷垣さんの父、専一元文相(いずれも自民)の死去に伴い、昭和58年夏、衆院旧京都2区(定員5)の補欠選挙が実施されることになった。父の後継候補として急遽(きゅうきょ)立候補することになった谷垣さんは、初めての選挙戦に臨んだ。投票日は8月7日。専一さんが他界してから、わずか1カ月半後だった》

初めての選挙でしたから、非常に気合が入っていました。私が考えていたのは「何が何でも絶対勝つ!」。これだけでした。ただ、自分の選挙事情を十分に把握していたかといえば、必ずしもそうではなかった。おやじの選挙を多少手伝ったことがある程度で、何年もかけて選挙区を歩き回ったわけではありませんでしたから。

一方、前尾先生の後継候補として担ぎ出された野中広務元幹事長は、町議、町長、京都府副知事を経験され、選挙区のことをよくご存じでした。私の陣営は野中さんをすごく意識していましたね。共倒れしないように両陣営で話し合い、野中さんの生まれ育った地域と私のおやじが生まれ育った地域はお互いに手を出さないことなど、いろいろな取り決めをしました。

《強力な助っ人も現れた。後に谷垣さんが行動を共にすることになる加藤紘一元幹事長だ。加藤さんは、前尾さんと専一さんが所属していた党内派閥「宏池会」(現岸田派、当時は鈴木派)が指導役として送り込んだ衆院議員で、すでに当選4回を重ねていた》

宏池会は「一六戦争」のただ中にあり、宮沢喜一元首相と田中六助元幹事長が後継争いをしていました。会長代行だった宮沢さんは派閥の選挙責任者で、鈴木派議員が2人欠けた補選で後継を当選させられないようでは、領袖(りょうしゅう)候補としてかなえの軽重を問われるという意識があったと思います。

その宮沢さんの下で師団長的存在だったのが、おやじと当選同期で最も仲が良かった金子一平元蔵相、さらにその下で連隊長のような位置にいたのが加藤さんでした。加藤さんは京都に20日間ぐらい泊まり込み、私に選挙の指導をしてくれたのです。これは半分冗談ですが、あまり熱心なので「祇園にいい人でもできたんじゃないか」という噂まで立ったほどでした。

加藤さんには「まず地域ごとにどんな課題を抱えているのかを知ることから始めろ」と教えられました。地域の課題を頭ごなしに解決するのは難しい。みんなで議論して納得し合う。それが日本の民主政治の原型だというのが、加藤さんの持論でした。全国比例ならともかく、選挙区の衆院議員はそうやって有権者の信頼を得ていかなければ選挙に強くなれないとも考えていました。

宏池会の代議士はほとんどみんな私の応援に入ってくださいました。宮沢さんと対抗関係にあった田中さんにも来ていただきました。先輩たちが私の選挙区で何をやっていたかといえば、地域の人を10~15人程度集めた少人数の会合です。これが後に、自民党が平成21年に下野し、私が総裁となってから始めた「ふるさと対話集会」につながりました。先輩方にとって旧京都2区はふるさとではありませんが、この集会はまさに、地域住民がひざを突き合わせて議論する日本政治の原型。加藤さんも「マイクを使って100人や200人の集会を開いたってだめなんだ」という考えを持っていました。

《8月7日、谷垣さんは野中さんとともに初当選を果たした。20歳年上の野中さんとは当選同期となった》

平成8年の衆院選で小選挙区制が適用されるまで、野中さんとは5回戦いましたが、票数で私が上回ったのはこの最初の選挙だけでした。自民党の票をきれいに2つに割って、一緒に当選を重ねていきました。(聞き手 豊田真由美)

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