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固有種と戦跡の森に命と平和を学ぶ 父島(東京都小笠原村)

船が発着する二見港と大村集落。父島の人口は約2100人
船が発着する二見港と大村集落。父島の人口は約2100人

「東洋のガラパゴス」と称される小笠原諸島は、4800万年前からの海底火山活動により形成された。大陸と一度も地続きになったことのない海洋島で、海や空を越えてきた生物が長い歳月をかけて独自の生態系を作り上げてきた。在来種に占める固有種は、植物で36%、昆虫類で28%、陸産貝類で94%にもなる。

かつては無人島で「ムニン」と呼ばれ、島の固有種はムニンヒメツバキやムニンシラガゴケなど、その名が付くものも多い。また「ボニン」とも呼ばれ、小笠原の深い青色の海は「ボニンブルー」の愛称で親しまれている。

こうした生態系の豊かさ、固有種の多さなどが評価され、平成23年に世界自然遺産に登録された。

今年3月、産経新聞社主催の小笠原ツアーに同行した。東京都心の南方約1千キロに位置する父島に着いたのは、東京の竹芝桟橋を出港した24時間後だ。外国よりも遠いと感じる亜熱帯の〝東京の島〟である。

小笠原諸島は、戦国時代の武将、小笠原長時のひ孫・貞頼が発見したと伝わるが、人が入植したのは文政13(1830)年で、欧米・ハワイ系の人たち25人ほどが父島に定住した。明治9(1876)年には、明治政府が欧米各国に日本領であることを通告した。

父島の中心地である大村集落は、カラフルな家々が目立ち、欧米のような雰囲気も感じられる。今も欧米・ハワイ系の子孫が暮らし、ハロウィーンなどの欧米文化が根付いている。

小笠原諸島は、先の大戦までは約7千人が暮らし、父島では民家が島中にあったという。しかし戦争が激化すると、太平洋の防衛拠点として日本軍が駐留する中、6886人の住民が本土へ強制疎開させられた。戦後は米軍統治下に置かれ、昭和43年に本土復帰した。

父島では至るところに戦跡が残る。とくに夜明山一帯は要塞化していたそうで、鬱蒼(うっそう)と茂る森の中に、発電所や通信隊送信所、塹壕(ざんごう)など軍事施設跡や砲台跡があった。しかし戦争に関する記録は焼失し、戦跡の詳細は不明だという。

境浦海岸には戦時中に米軍の攻撃を受けて座礁した浜江丸の残骸が残る
境浦海岸には戦時中に米軍の攻撃を受けて座礁した浜江丸の残骸が残る

一方で、森の中で多くの固有種を確認できた。その一つであるタコノキの葉は、「タコノ葉細工」として工芸品に利用されている。また、見晴らしがよいウェザーステーション展望台では、沖で潮を吹くザトウクジラを何頭も見た。

森と海で、はるか昔から脈々と受け継がれる命と出合い、平和について改めて考えさせられる旅だった。

アクセス 東京の竹芝桟橋から船で。空路はない。

プロフィル 小林希 こばやし・のぞみ 昭和57年生まれ、東京都出身。元編集者。出版社を退社し、世界放浪の旅へ。帰国後に『恋する旅女、世界をゆく―29歳、会社を辞めて旅に出た』(幻冬舎文庫)で作家に転身。主に旅、島、猫をテーマにしている。これまで世界60カ国、日本の離島は120島を巡った。


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