大きな繁栄をもたらした江戸期の捕鯨。それは誰のものでもなかった海の富の独占も意味した。捕獲したクジラをくすねる一団が出没したが、厳しくとがめる雰囲気は薄かった。まだ近代的な法が整備される前の時代。それは自然発生的な、富の分配でもあった。

※画像は横スクロールできます。絵図とジオラマは長崎県平戸市の「島の館」所蔵
気になったのはクジラの巨体を切りさばく様子より、ジオラマの片隅にあった一団だ。長崎県平戸市、生月(いきつき)島にある博物館「島の館」を訪ねた。江戸時代にはここで、全国最大規模の古式捕鯨が行われていた。
岸壁から綱を垂らし、クジラ肉の塊をひそかに持ち出そうとしている。そばには男に棍棒(こんぼう)を振り上げられ、逃げ惑う人たち。泥棒の一味、だろうか。
九州北西部の捕鯨は江戸時代後期、太地など紀州を凌駕(りょうが)した。なかでも益冨家は本拠地・生月島のほか、壱岐や五島灘にも鯨組(捕鯨組織)を置き、3千人も雇用する巨大企業だった。九州各地や瀬戸内から網張りなどの技術にたけた漁師を雇い入れ、能力や効率重視の近代的経営を行った。戦国時代に伊勢湾で興った古式捕鯨は、この益冨家の経営で頂点を迎えたといえる。
画家で蘭学者の司馬江漢は天明8(1788)年末から1カ月、益冨家に滞在し、その繁栄ぶりを「西遊日記」に残した。