努力で天職に 相棒は40年来のミシン グラブ名人・坪田信義さん

使い込まれたミシンを使いパーツを縫い合わせる野球グラブ作り名人の坪田信義さん=大阪市福島区(平成16年10月撮影)
使い込まれたミシンを使いパーツを縫い合わせる野球グラブ作り名人の坪田信義さん=大阪市福島区(平成16年10月撮影)

この記事は、平成16年11月4日付の産経新聞大阪本社版に掲載された記事のアーカイブ配信です。年齢や肩書、地名は当時のまま。連載記事「達人口伝」のなかで、4月3日に死去した坪田信義さんのインタビューを掲載。王貞治氏やイチロー氏、松井秀喜氏ら数々のプロ野球選手のグラブを手がけた「現代の名工」がグラブづくりへの思いを語っています。

工房に置かれた〝40歳近い〟ミシン。地方の店頭実演にも運び込まれる坪田さんの分身だ。〝ガガーッ〟-。黄色い糸をかけ、坪田さんがグラブの指のパーツを縫い始めた。指部分の支えとなる細革「はみだし」など3枚の革を重ね、フリーハンドですいすい縫う。

「同じモデルでも指の細い人は縫い代を深くし、内径を狭くします。革の裁断は比較的早く習得できるんですよ。しかしミシンは一番難しい仕事。指の部分を縫うのはまだ簡単ですが、これも年季がいるんです」

坪田さんの美津濃(現・ミズノ)入社は終戦直後の昭和23年。革は配給制で手に入らず、グラブは帆布製だった。

「戦後、グラブは年間通して生産するだけの需要がなかった。6、7カ月はグラブを作り、夏場はスキー手袋とかいろいろ作ってました。グラブは分業生産で、裁断、指つなぎ(指部分の縫製)など一つの工程を何年もやらされる。希望を失って、やめる決心をしたこともあるんです」

20年代後半、紙、砂糖、セメントの〝三白〟はすさまじい好景気。20歳前の坪田さんには別世界に見えた。

「それで紙の会社の入社試験を受けたんですけど、すべったんですよ。いったんすべったら移る気が全くなくなった。グラブを自分の天職にせなあかんと。それから打ち込みました。負けず嫌いで、同じ工程でも仲間をチラッと横目で見ながら、だれよりきれいに早く縫う。ある工程の手ほどきを上司から受けたら、最初はそのようにやるけれども、自分なりにこの方がいいというのがあったら、上司の見てないときにやってみる。それが結果的に認められる。工夫しましたね。『努力は報われる』というのが今の私の信念です」

結局、大阪工場の同期数十人のうち定年まで残ったのは坪田さんとあと1人だけ。若いうちに他業界に転職した人も多かったとか。今、ミズノでグラブの全工程を一人でできるのは、坪田さん含め数人しかいない。

「試験に落ちて良かった。心底そう思ってます。今の仕事はプレッシャーあるし、常に情熱を燃やし続けなくてはならない。しかし、人生の張り合いは全然違う。もし他業界に行っとったら、もうこの世にいなかったかもわからん、と思ってるんです」

■産経抄 4月6日

■目標は「絶対にエラーしないグラブ」

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