雨乞い対決は伝説か 平安京の西寺は東寺と互角だった

講堂の北側から出土した軒廊跡。土壇を凝灰岩のブロックが覆っていたとみられる=京都市南区
講堂の北側から出土した軒廊跡。土壇を凝灰岩のブロックが覆っていたとみられる=京都市南区

平安京の玄関である羅城門を挟み、東寺と左右対称に配置された西寺跡(京都市南区、国史跡)から、9世紀の廊下跡が出土した。屋根付きの「軒廊(こんろう)」と呼ばれる渡り廊下で平安京内では初の出土例。天皇ら限られた人のみが歩けた格調高い廊下で、調査した市文化財保護課は「西寺と東寺の存在が天皇に重要視されていたとわかる史料だ」と説明する。さらに、こうした評価だけでなく、両寺院のかかわる有名な逸話の核心に迫る発見にもなりそうだ。

軒廊の初出土

西寺の講堂跡北側の計約75平方メートルを調査した結果、講堂跡と僧の居住施設「僧房(そうぼう)」跡の間から3メートル四方の廊下跡の一部が凝灰岩(ぎょうかいがん)とともに出土した。

廊下は表面と両側面を凝灰岩で覆われていたとみられ、史料などから、講堂と僧房をつなぐ瓦ぶき屋根の軒廊と判明。過去の調査結果などを基に、廊下は南北8・3メートル、東西8・0メートルと推定され、講堂の東西だけでなく、北側も僧房と軒廊とつながっていたことが明らかになった。

西寺の復元図。コの字の僧房に囲まれた講堂(中央)の左右から軒廊が伸びている(梶川敏夫さん作)
西寺の復元図。コの字の僧房に囲まれた講堂(中央)の左右から軒廊が伸びている(梶川敏夫さん作)

軒廊は、平安宮内の大極殿(だいごくでん)-小安殿(しょうあんでん)、豊楽殿(ぶらくでん)-清暑堂(せいしょどう)など天皇の儀式・政務にかかわる施設や、西寺と東寺の境内にしかなく、後世の開発などの影響で、これまで基礎工事跡がわずかに確認される程度だった。

それだけに、調査を担当した市文化財保護課の西森正晃主任は「平安京の軒廊の具体的な姿が初めてわかった。西寺だけでなく、平安宮内をより詳細に復元する上で重要な発見になった」と説明する。

高い僧の権威

近畿大の網伸也教授(考古学)は今回の出土について、「軒廊は平安宮などごく限られた場所でしか設けられなかった格調高い施設だけに、両寺の権威の高さを証明する成果にもつながった」と話す。

当時、遷都以前から存在したケースを除いて平安京内に私的寺院を建立することが認められておらず、平安京内に建つ本格的な大寺院は国営の西寺、東寺のみ。遷都に伴って国家安泰のために両寺院が造られた経緯を踏まえ、網氏は「平城京以来の旧仏教の流れを持つ西寺と、唐から持ち帰った新興の密教を柱とした東寺と、異なる両仏教で国を守ろうとしたのだろう」と推測する。

当時の両寺院の高僧は西寺の守敏(しゅびん)と東寺の空海。2人は嵯峨天皇から西寺と東寺をそれぞれ与えられた翌天長元(824)年、干魃(かんばつ)を抑えようとの淳和天皇の勅命で雨乞い対決をし、空海が勝ったとの話でも知られる。

ただ、京都産業大の井上満郎名誉教授(日本古代史)は「2人の対決はありえない」と異議を唱えており、今回の軒廊跡の出土がその裏付けになるとの見方を強めている。

雨乞い対決は?

雨乞い対決の話は、平安末期(12世紀)の説話集「今昔物語集」と室町時代(14世紀)の軍記物「太平記」で紹介されている。井上氏は「この話が生まれた背景には両寺院をめぐる環境の差がかかわっている」と指摘する。

東寺は密教の修行道場として今も大寺院の威容を誇る一方、西寺は天福元(1233)年の火災以後は再建されなかった。つまり雨乞い合戦の話が広まったころには西寺の影は薄くなっていたため、西寺の守敏をおとしめるような話がまことしやかに伝わったと見るべきだという。

軒廊の発見によって、創建当時の西寺は東寺同様に国家寺院として最高級の技術を駆使され、西寺の地位も確保されていたことが判明。井上氏は「両仏教の力を合わせて災難を鎮めてもらいたいとする矢先に、天皇や上皇が2人を競わせたとは、考えられない」と結論づけた。

今回の出土が、守敏の権威も回復させる一手となるか、さらなる解明が期待される。(園田和洋)

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