話の肖像画

谷垣禎一(6)残る道は司法試験…37歳で弁護士に

文相を務めていたころの父、専一さん(右端)。政界に入る前は農林官僚だった  =昭和55年2月
文相を務めていたころの父、専一さん(右端)。政界に入る前は農林官僚だった  =昭和55年2月

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《昭和47年、8年がかりで東大法学部を卒業した谷垣さん。度重なる留年で卒業後の進路を狭めてしまったことから、弁護士を目指して司法試験に挑戦することにした》


おやじは当初、「役人も悪いもんじゃないぞ」と言っていましたが、こんなに留年に留年を重ねたら、そりゃもうだめでしょう。おやじは手に余って困ったろうと思います。実際、「どうして(どうやって)生きていくんや」としょっちゅう怒られていました。8年も大学にいたら、おのずから道は狭まってしまいます。残る道は司法試験、ということになったわけです。

ただ私の場合、山登りだけでなく、落語を聞きに行ったり歌舞伎を見に行ったりもしていました。そういうことばっかりやっていたから、大学の卒業もずいぶん遅くなったし、司法試験もなかなか受からなかった。一方、世の中には秀才がいて、私の大学にも現役で司法試験に合格しちゃうような同級生が何人かいたんです。そのうちの一人が、「無罪請負人」といわれている弘中惇一郎弁護士でした。


《現役合格した同級生に「受験勉強の王道」を示唆され、目からうろこが落ちたことも》


憲法の勉強をしていたとき、弘中さんとは別の合格者に「私学助成は合憲だという答案はどう書いたらいいんだ」と聞いたことがありました。憲法89条は、公の支配に属しない教育事業に公金を支出してはならないと定めている。一方で、私学助成はすでに制度化されていて、それを「違憲だからやるな」と反対する人はあんまりいない。だから私は、もし司法試験にこれが出題されたら、私学助成は違憲だという答案は書けないだろうと考えました。しかし、合憲を前提にした答案をどう書いたらいいのか、さっぱりわからなかったのです。

彼の答えは意外なものでした。「ばかだな、お前。そんな問題が出るわけねえだろ」。要するに、三百代言が頭をひねって何とかつじつまを合わせたようなことを、受験生に短時間で書かせるわけがないというのです。「ははあ、頭のいい人はこういうふうに考えるのか」と思いました。頭の良さにもいろいろあって、出題傾向を分析して要領よく点数を取る人もいれば、本質的なことを考えていて成績にはすぐに結びつかない人もいる。前者の彼はある意味、割り切りがいいのですね。


《司法試験の勉強を通じ、人生の伴侶と巡り合った》


他の大学には卒業生を対象とした司法試験対策の課外講座があったのですが、東大にはなかったので、その大学に通った知人の名前を借りて講座を利用したことがありました。早稲田大のそれは「法職課程」と呼ばれていて、弁護士を目指していた家内もそこに通っていたのです。家内のいとこが私の麻布時代の同級生だった関係で知り合い、一緒に司法試験の勉強をするようになりました。


《大学卒業から7年半後の54年、ついに司法試験に合格。司法修習をへて都内の法律事務所に就職するころには37歳になっていた。妻の佳子さんとは合格翌年の55年に結婚し、57年に長女、59年に次女が生まれた》


司法試験は7、8回ぐらい受けたと思います。家内は私が合格した翌年も受験しましたが、不合格でした。それで「それなら僕のところに永久就職しませんか」と結婚を申し込んだのです。家内が何と答えたのかって? よく覚えてないけど、「まあ、いいか」ってなもんじゃないですか(笑)。

おやじが当時代議士だったので、家内のおやじからは「あなたも選挙に出る気持ちがあるのか」と聞かれました。私のおやじは息子に後を継がせる考えがありませんでしたし、私も弁護士としてやっていくつもりだったので「いや、そんな気はありません」と答えました。(聞き手 豊田真由美)

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