話の肖像画

谷垣禎一(5)大学時代は山に専念、8年かけ卒業

東大2年生のころ(右)。当時は建設政務次官だった父(左)、中学3年の弟と =昭和41年1月
東大2年生のころ(右)。当時は建設政務次官だった父(左)、中学3年の弟と =昭和41年1月

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《高校卒業後、1年間の浪人生活をへて、昭和39年、東大に進学。大学でもスキー山岳部に入部し、山登りに熱中した》


大学ではボートやヨットをやるのも悪くないなと思い、少々迷いましたが、やっぱり山を選びました。

東京の大学の山岳部は、四季を通じて主に北アルプスに登るのが中心的な活動になると思います。当時の東大スキー山岳部では、夏合宿は大抵、剱岳で10日間ぐらいやった後、北アルプスのいろんな所で分かれて、さらに10日間ぐらい縦走していました。上級生はその後、また剱岳か穂高岳に1週間ぐらい岩登りに行っていましたね。冬合宿は乗鞍岳で、新人はスキーなどをする。上級生はそこで新人を指導したり、中央アルプスのどこかを縦走したり。そうしているうちに、例えばヒマラヤなんかでもある程度は通用するような技術がだんだん身についていくんですね。もちろん、ヒマラヤと一言で言ってもピンからキリまでありますが。

当時のスキー山岳部には、新入部員をしごくときに歌う歌がありましてね。「♪この野郎 さあ歩け 歩けなければはって登るんだ」「♪僕はもうだめです 腹が減ってふらふら 足は動かずふらふら これじゃとっても歩けません」。今なら人権問題になりそうな歌ですが…。雨でたき火の木になかなか火がつかないときには「♪それ16回 まだだめだ 燃えるはマッチ 新聞紙」と歌いながら火をおこしていました。

北アルプスや南アルプスの沢を登っていると、何の手入れもされていない自然が広がっていて、「京都の庭園はこういう景色をモデルにしているんだろうな」と思うことがありました。実際には京都の庭園よりずっと荒々しいのですが、枯山水なんかは「日本の風景」というものをよく表現しているなと思います。キザな言い方をすれば、まさに「自然は芸術を模倣する」といった感じ。和歌や俳句に詠まれるような四季折々の風景にも度々出合いました。

《当時の東大スキー山岳部では、年間100日以上も山にこもるのがざらだった。きちんと単位を取って大学を卒業していく仲間もいたが、谷垣さんは単位を落とし続けて留年を重ねた。卒業したのは47年。入学から8年がたっていた》


今は違うと思いますが、当時のスキー山岳部では「年に100日ぐらいは山に行かないとレベルが保てない」とされていたんです。授業も今ほど出席にうるさくなく、試験さえ通ればいいという考えが強かったんですね。だから当時の部員はみんな100日以上山に入っていたと思います。一方で、「120日未満で留年するのは要領が悪い」「150日以上だと留年する」というような目安もありました。さすがに150日も山に行っていた年は、私もなかったかもしれない。

最近、スキー山岳部の百年史が作られることになり、私が新入部員のころのチーフリーダーが1960年代の記述を担当することになったそうです。その先輩がこの間、「あのときは異常な時代だった」と言っていました。先輩の学年では当初30人ぐらい新入部員がいたのに、最後まで部に残ったのは5人か6人で、そのうち4年で大学を卒業したのは1人だけだと。私の学年も似たようなもので、留年する部員が珍しくありませんでした。試験さえ通ればいいというムードに安易に乗っかって、山登りばかりしていたのは間違いだったということですね(苦笑)。

ちなみに、私が留年中の昭和44年に安田講堂事件が起こり、東大も学生運動でかなり荒れました。各運動部に全共闘系とか代々木(民青)系とかいろんな人がいましたね。スキー山岳部にもいろんな人がいましたが、山は一緒に登っていましたよ。(聞き手 豊田真由美)

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