この記事は、平成20年9月26日付の産経新聞大阪本社版に掲載された記事のアーカイブ配信です。年齢や肩書は当時のまま。連載記事「さらば革命的世代」のなかで、3月30日に死去した宮崎学さんのインタビューを掲載。昭和40年代に盛り上がりを見せた全共闘運動について語っています。
近親憎悪で対立
グリコ・森永事件の重要参考人「キツネ目の男」に警察当局から疑われて注目された作家の宮崎学さん(62)は早稲田大時代の昭和40年代前半、全共闘のような「新左翼」ではなく、「旧左翼」の側から大学紛争にかかわっていた。
日本共産党(日共)の学生組織「民主青年同盟(民青)」の秘密ゲバルト部隊「あかつき行動隊」。当時、日共は武装闘争路線を放棄していたが、「新左翼の暴力には暴力で対抗しなければ党勢に影響する」との正当防衛を理由に結成された。突然現れたゲバルト部隊に驚いた全共闘が、当時日共の機関誌などを印刷していた「あかつき印刷」の労働者集団と勘違いしたのが名の由来だという。宮崎さんは、その隊長だった。
「ヤクザの世界と一緒やな。全く別組織との抗争は簡単に手打ちできるが、同じ組の中での内部抗争はたちが悪い。左翼も新左翼も根っこの部分では同じであり、だからこそ近親憎悪の感情から対立が深まっていった」
初めて行動隊に動員がかかったのは43年9月、全学封鎖が進む東大だった。バリケードを築いて「大学解体」を主張する東大全共闘を排除するためだ。「非暴力で民主的な大学」を目指したはずの民青も安田講堂事件までの5カ月間、全共闘学生たちと同様にゲバ棒を振り回した。当時、民青の中にも「暴力」に飢えていた学生が多かったという。
宮崎さんは「日共は選挙の票がほしいがために『あれやっちゃいかん』『これもあかん』という制約が多すぎた。一方で僕らがなんぼデモで人集めても、赤旗の集金を多く集めた人のほうが評価される。ものすごく官僚的な組織だった」