小林繁伝

まさかの6番手「あのときオレは怒っていた」 虎番疾風録其の四(19)

大事な一戦で右手薬指を骨折し、厳しい表情で医務室を出る巨人の長嶋=昭和48年10月、後楽園球場
大事な一戦で右手薬指を骨折し、厳しい表情で医務室を出る巨人の長嶋=昭和48年10月、後楽園球場

「小林って誰や?」「こんな痩せっぽちのルーキーに任せて大丈夫?」

昭和48年10月11日、巨人―阪神の命運をかけた〝二番勝負〟。10―10となった九回のマウンドに立った小林に後楽園球場のスタンドは大いにざわついた。

負ければ巨人のV9は遠のいてしまう。1点もやれない。普通のルーキーなら膝が震えてしまうだろう。だが、小林は「緊張感はなかった」という。

実は試合前、小林は投手コーチから「きょうは2番手で行くから用意しておけ」と告げられていた。ところが、まさかの堀内一回KOで筋書き変更。巨人ベンチは玉井―関本―倉田―高橋善とつぎ込んでいった。その間、小林は「次はオレか」「次はオレだ」と身を乗り出して待った。

「出番が後ろへ、後ろへとまわされていくうちに緊張感も薄れた。というより、だんだん腹が立ってきて、マウンドに上がったときには怒っていたんだ」

10―10の大事な場面での期待の投入―といえば聞こえはいい。だが、この日、巨人は6人しか投手をベンチ入りさせておらず、九回には期待どころか、もう投手は小林しかいなかったのだ。

怒りの投球は1番・藤田平、2番・野田、3番・遠井をわずか7球で料理。両軍ベンチもスタンドも「ほおぉ」と唸らせた。

V9へ首の皮一枚残った巨人。大きな引き分けだった。川上監督も「勝ったも同じ。勝負はこれからだ」と力を込めた。だが、悲劇も起こった。0―6と阪神リードで迎えた二回、2死一、三塁で阪神・後藤の三ゴロがイレギュラーし長嶋の右手薬指を直撃したのだ。すぐさま都内の病院で検査した結果「末節開放性骨折」と判明。1カ月間ボールも握れない状態に陥った。

「ボクが下手だった。グラブを出せばいいのに、とっさに右手を出しちゃった。みんなに申し訳ない」

長嶋抜きの戦い。せっかくの引き分けも、14日の大洋戦に4―5で敗れ、16日のヤクルト戦も2―4と連敗。広島戦に1勝1敗だった阪神に1ゲーム差をつけられてしまう。

そして阪神は、いまでは〝伝説〟となった10月20日、ナゴヤ球場での「悪夢の中日戦」を迎えたのである。(文中一部敬称略)

■小林繁伝(20)

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