記者としての振り出しは京都支局だった。サツ回りで1年が過ぎた昭和51年(1976年)、前代未聞の事件に遭遇した。
ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕され、日本中が騒然としていた。その最中、三木武夫首相の私邸に検事総長をかたる電話があり、自民党幹事長にも収賄の容疑があると虚偽の事実を告げて、「総理のご裁断があれば、幹事長は見逃しということで…」と指揮権発動の言質を引き出そうとした。
録音テープが新聞社に持ち込まれて明るみに出た。驚いたことに、偽電話をかけたのは京都地裁の現職判事補だった。本社からも応援が来て、新米記者は判事補周辺の聞き込みに忙殺された。しかし、動機も背景もはっきりしないまま、官職詐称の軽犯罪法違反という軽い罪で幕が引かれた。
40年以上も前の事件を思い出したのは、ロシアによるウクライナ侵攻にからんで、よく似た謀略が仕組まれたからだ。ウクライナ首相になりすました人物から英国の国防相に偽電話があった。ビデオ通話で、英国が黒海に艦船を派遣する意向があるか、ウクライナは核兵器を持つべきか、などと質問した。不審に思った国防相が10分ほどで通話を打ち切ったという。
別の閣僚にも同様の電話があり、英首相報道官は「ロシア政府に責任がある」としている。ウクライナのゼレンスキー大統領の映像を加工して国民に降伏を呼び掛ける偽動画もネットに投稿されたが、これもロシアの仕業ではないか。
「噓も百回言えば真実になる」はナチスドイツの宣伝相だったゲッベルスの言葉とされる。プーチンもそう信じているのだろう。ウクライナ侵攻を正当化するため、東部の親ロシア派住民へのジェノサイド(集団殺害)という理由をでっち上げた。さらに「民間人は標的にしていない」「原発や民間施設への攻撃はウクライナの自作自演だ」などと、臆面もなく噓をまき散らしている。だが、いかに強権で情報統制しても真実を隠すことはできない。
一方、ゼレンスキー大統領は日本を含む西側主要国の議会でオンライン演説し、巧みな弁舌で国際社会の支持を広げている。どちらが情報戦の勝者かは言うまでもない。
ノーベル文学賞を受賞した英国の劇作家、バーナード・ショーはこう言った。「噓つきの受ける罰は、人が信じてくれないというだけでなく、ほかの誰をも信じられなくなることである」
プーチンは今、誰も信じられず、疑心暗鬼に陥っているのではないだろうか。
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しかま・こういち 昭和26年生まれ。社会部遊軍記者が長く、社会部長、編集長、日本工業新聞社専務などを歴任。特別記者兼論説委員として8年7カ月にわたって夕刊1面コラム「湊町365」(産経ニュースでは「浪速風」)を執筆した。