貴重な二ホンアシカの剥製も日本動物学会で展示されていた=鳥取県米子市
貴重な二ホンアシカの剥製も日本動物学会で展示されていた=鳥取県米子市

島根県隠岐の島町の竹島が最後の国内生息地とされたニホンアシカ。その竹島でも、昭和29年以降の韓国の不法占拠が続く中で絶滅したとみられる。剝製は世界で約10数体しか残っておらず、過去にはオットセイやトドと混同された資料も多い。だが、鳥取大の井上貴央名誉教授は30年以上にわたりニホンアシカを追い、その歴史を含めひもといてきた。この悲劇の海獣の研究成果とは?

日本動物学会米子大会で講演する鳥取大の井上貴央名誉教授=鳥取県米子市
日本動物学会米子大会で講演する鳥取大の井上貴央名誉教授=鳥取県米子市

因幡の白兎はアシカが皮をはいだ

3月中旬に鳥取県米子市で開かれた日本動物学会米子大会の市民公開イベント。「山陰の自然、その過去・現在・未来-私たちが守り続けたい生き物たち-」をテーマとした公開講演会の講師のトップバッターとして井上さんが登壇した。

「ニホンアシカはかつて、日本列島全域に住んでいました。各地の縄文時代の遺跡からも、アシカの骨が出土しています」

日本神話の「因幡の白兎」でも、白ウサギが日本海の島から因幡(現在の鳥取県東部)に渡ろうと、「ワニ」の背中を渡り、ウソがばれて皮をはがれた。これを通りかかった大国主命が、「体を真水で洗ってガマの穂を取って、その上を転がりなさい。そうすれば回復するでしょう」と助けたと伝わる。このワニとはサメのことだといわれるが、井上さんは、アシカではないかと推測する。

白ウサギが渡ったとされる場所の一つ、現在の鳥取市白兎(はくと)海岸近くの気多(けた)岬について、「浅瀬の岩礁で、アシカが生息しやすい地。ガマの穂がつく5~6月はアシカの繁殖期で、オスを中心に多くのメスが集う時期でもあります」という。なるほど、説得力のある説だ。

二ホンアシカの皮と皮で作られたかばん
二ホンアシカの皮と皮で作られたかばん

体長2・9メートル

井上さんはアシカはアザラシと違い、首の骨が長く、伸びる特徴があり、オスは加齢とともに頭部にこぶができると紹介。

アシカとオットセイとトドなどと混同されやすく、明治期などの資料では、区別がされていないものも多い。その中で、「世界にはカリフォルニアアシカとガラパゴスアシカが生息しているが、ニホンアシカが最も大きかった」と説明する。

会場では、昭和9年に竹島で仕留められた最大級のオスのニホンアシカで「リャンコ大王」と呼ばれた個体の頭蓋骨も展示されていた。元は体長2・9メートルもあったという迫力に圧倒される。リャンコとは隠岐の人たちの竹島の呼び方だ。

竹島では江戸時代の1600年代前半から、伯耆国(現在の鳥取県西部)の商人が幕府の渡海許可を得てアシカ猟を行い、明治時代には隠岐の島民が組織的な漁猟を実施していた。「竹島漁猟合資会社」が県の許可を受け、明治39年は約1300頭、40年は約2千頭、41年は約1800頭を捕獲したと記録されている。

竹島で仕留められた最大級の二ホンアシカ「リャンコ大王」の頭蓋骨
竹島で仕留められた最大級の二ホンアシカ「リャンコ大王」の頭蓋骨

途絶えた目撃情報

捕れたアシカは、油や革製品として重宝され、昭和に入ると、動物園や水族館にも売られて飼育され、人気を博していた。出雲大社(島根県出雲市)でも、神事でアシカの皮を使ってきた。ただ、頭数は徐々に減少していく。

なぜ、ニホンアシカは、国内での目撃情報が途絶えてしまったのか。

井上さんはいくつかの原因を上げる。

「明治期の乱獲によるもの。また、韓国の竹島占拠後は、竹島に人が常駐し、生息環境を乱したこと。幼獣を食用にしたこと。学術調査でアシカが確認されているのに、保護策が取られなかった」

井上さんは、韓国側は「ニホンアシカをこの世から絶滅させたのは日本人だ」という誤った情報を発信していると指摘する。

「韓国側は日本の乱獲により、ニホンアシカが絶滅してしまったと主張するが、科学的根拠に基づかない。情報操作されている現実には深い悲しみと怒りを感じる」としている。(藤原由梨)

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