今から1400年前の622年に聖徳太子が死去した後、豪族の蘇我蝦夷(そがのえみし)、入鹿(いるか)の父子が権勢を振るいました。
日本書紀によると、父子は人々を動員して、将来自分たちが入る大きな墓を造り、まるで天皇のご陵のように位置付けました。それぞれ大きな屋敷を構え、特に入鹿は、その屋敷を「宮門(みかど)」、子供たちを「王子(みこ)」と呼ばせるなど、完全に天皇気取りで、天皇になるはずの聖徳太子の子孫を攻め滅ぼしました。
645年に中臣鎌足とともに入鹿を斬り、蝦夷も自害に追い込んだのが、後の天智(てんじ)天皇である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、626~72年)です。神田蘭さんが「蘇我入鹿誅滅(ちゅうめつ)事件」と天智天皇の功績を語ります。
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