大方の予測に反してロシアはウクライナに軍事侵攻を行い、さらに予想外に苦戦している。各紙は、苦戦の背景についてロシア側の準備不足やウクライナ側の奮戦、さらには欧米諸国からの軍事支援、対ロシア経済制裁、そして偽情報対策が綿密に行われた結果であると報じている。ただ、ウクライナ軍があれほどの人命の犠牲を払いながら、なぜ戦い続けるのか、その理由について踏み込んだ分析はあまりみられない。一方、一部のメディアでは人命救助の観点からウクライナ側に降伏を促すような意見も散見される。多くの日本人にとって人命よりも大事なものはないし、戦争といえば太平洋戦争となるので、降伏を合理的と考えるのだろう。
だが個人的には、これは日本人に特有の考えのようにも思える。確かに太平洋戦争において日本は連合国に無条件降伏し、その結果、旧軍は解体され、沖縄の執政権は失ったものの、戦後日本は見事な経済復興を遂げた。この歴史の一部分だけ切り取ってみれば、一般の国民にとって無条件降伏は僥倖(ぎょうこう)だったと思えるかもしれない。
しかし当時の米国だけが例外的に寛容であったということを忘れてはならない。旧満州では日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が侵攻し、そこでは日本の軍人だけでなく、民間人も塗炭の苦しみを味わい、北方領土は占拠された。また第二次世界大戦中、リトアニアはソ連の属国となり、フィンランドは領土割譲を強いられた。現在のウクライナがロシアに降伏するということは、主権を奪われ、何十年にもわたる属国化を意味するのである。
他方、戦後日本は経済と人命至上主義でやってきた。これ自体は悪いことではないが、その考えに従えばなぜウクライナの人々が人命を度外視してロシア軍と戦っているのかがよく見えてこない。欧米では過去何百年も戦争を行い、その過程で主権や個人の自由、また国際法といった制度や理念を築き上げてきた。ウクライナの人々が戦い続けるのは、一義的には目の前の侵略者から自分たちの家族や国土を守るためだろうが、さらに突き詰めていけば、上記のような理念を守るというところにたどり着く。先日の国会における演説でも、ゼレンスキー大統領は自由という言葉を強調した。欧米諸国がウクライナに対する支援を惜しまないのは、そのような理念が共有されているからだ。
他方、日本は経済的な理由や台湾有事への危惧、といった理由で欧米に追随しているが、日本の政治家や企業経営者、何より新聞をはじめとする報道機関はもっとはっきりと、ウクライナの主権と、そこに住む人々の自由を守るためだと理念を語ってもいいように思う。
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【プロフィル】小谷賢(こたに・けん)
昭和48年、京都市生まれ。京都大大学院博士課程修了(学術博士)。専門は英国政治外交史、インテリジェンス研究。著書に『日本軍のインテリジェンス』など。