文芸時評

4月号 不安定な文学が鍛える 早稲田大学教授・石原千秋

早稲田大学教授の石原千秋さん
早稲田大学教授の石原千秋さん

「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見えることです。元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンにかける、めちゃくちゃなものであります」。夏目漱石が、将来のエリートの通う学習院で大正3年に行った講演「私の個人主義」の一節である。

漱石は日露戦争のさなかに作家デビューした。のちに第一次世界大戦と呼ばれることになる戦争については「私は私の病気が継続であるという事に気が付いた時、欧州の戦争も恐らく何時の世からの継続だろうと考えた」(「硝子戸の中」大正4年)と書いた。漱石は戦争に縁取られた作家だ。漱石から学ぶことは多い。

「もしかすると、デジタル時代の怖さというのは、デジタル技術が私たちを支配することよりも、むしろ私たち自らがデジタル化すること―すなわち森羅万象を進んで『0』と『1』に置き換えてゆくこと―にあるのかもしれない」(渡辺靖、「究」令和4年4月号所収)

いままさにそういう時代になってしまった。「世の中には一つ怖ろしいことがある。人がみなそれぞれの正義を持っていることだ」という趣旨のことを言ったのは誰だったか。

「政治的正しさ」も根本は「森羅万象」を「『0』と『1』に置き換え」ないことにあるにちがいないが、「政治的正しさ」への態度を「0」か「1」のどちらかに迫る不寛容さは「政治的」に「正しい」のだろうか。文化は差異によって成り立っている。その中のいくつかを差別に「置き換え」て是正する基準は一つでいいのだろうか。正義の戦争の「正義」は一つでいいのだろうか。

政治的に正しい動物倫理学は広がりを見せているのに、なぜ植物倫理学は広がりを見せないのだろう。僕は、まるで電信柱のように剪定(せんてい)された街路樹を見るたびに心がヒリヒリ痛む。そういう街路樹のために「緑色の欺瞞(ぎまん)」というコラムを書いたこともある。緑を大事にしているようで、傷めつけている。

こういう倫理学の根底には人間の負い目があるにちがいない。人間も死んだら自分の体を感謝を込めて自然に返すなら、この負い目が少しは和らぐのではないかと思うこともある。人は自分の体を支配しすぎた。人を「森羅万象」の支配者ではなく、その一部だと感じるのは日本の伝統ではなかったか。日本なりの「正義」の形があってもいいのではないだろうか。「則天去私」という漱石晩年の境地をそう理解してみたい。

「文藝家協会ニュース」の三田誠広知的所有権委員長の発言を見て驚愕(きょうがく)した。学校の授業で著作権のある著作物をタブレットなどで使用した場合には補償金の支払いが行われるが、システムが十分ではない。そこで、学校から子供のタブレットに自分の作品が送られてきたら担任の教員の名前等をメモしておき、あとで「クレーム」をつける「証拠」を保全しておいてほしいと会員に呼びかけているのだ。「クレーム」という言葉の選び方に呆(あき)れ果てた。文学は未来の読者に手渡されてはじめて生き残るものだという謙虚さのかけらもない。

文学教育も文学を支えている。文学教育のために、読書を呼び分けたらどうだろうか。趣味で読む読書は「好きに読むこと」、教室で読む読書は「自由に読むこと」と。後者は、テクストから根拠を挙げて自分の読みについて説得するところまでを読書とすればいい。文学のような不安定なテクストをこうして読むことで、感性と思考と個性がどれだけ鍛えられるだろう。僕はそうしている。

この「時評文芸」では新人賞作品はできる限り取り上げ、その時々の火傷(やけど)しそうな問題にもできる限り意見を述べてきた。それが「時評文芸」の使命だと考えたからだ。それも今回で15年間の最後だ。さようなら。

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