一聞百見

バリアフリーの概念超える ata Tours代表、中岡亜希さん

挑戦を続ける中岡亜希さん=京都府宇治市(渡辺恭晃撮影)
挑戦を続ける中岡亜希さん=京都府宇治市(渡辺恭晃撮影)

20年前に進行性の希少難病と告知され、今は指先と首をわずかしか動かせない。だが「やりたいことを諦めない」と水陸両用のアウトドア車いすを輸入して海に入り、山に登った。フランス製の着座スキー「デュアルスキー」を初めて日本に輸入し、誰もがともに自然を楽しむ「ユニバーサルツーリズム」の普及にも取り組む。そんな中岡亜希さんの「冒険」には、社会を変える力がある。

25歳で難病告知

1月22日午後、札幌市のテイネスキー場。プロスキーヤーで冒険家の三浦雄一郎さん(89)と、デュアルスキーのデモンストレーションを行った。雪煙を巻き上げて滑走した中岡さんは「最高の気分です!」と声を弾ませた。

客室乗務員として働いていたころ(中岡亜希さん提供)
客室乗務員として働いていたころ(中岡亜希さん提供)

短大を卒業し、日本航空の客室乗務員として働いていた22歳のころ、異変を感じ始めた。疲れやすく、少し動いただけで滝のように汗が流れた。「体力不足かな」と思ったが、手すりにつかまって体を持ち上げないと階段が上れなくなり、近くの内科を受診。血液検査で異常が見つかり、紹介された大病院で「遠位型ミオパチー」と診断された。25歳のときだった。

妹も同じ病に

全身の筋肉が末端から少しずつ衰える進行性の難病。医師が示した紙には、10年前後で自力歩行が困難になると書かれ、「治療薬はありません。けがをしないように、穏やかに生活してください」と言われた。

とっさに、「この10年が勝負だ」と思った。休職したが「できる限り自立して暮らしたい」と、東京で独り暮らしを続け、筋力を維持しようとジムに通い、車の免許を取得した。

だが、その日々は「人生で一番つらかった」。徐々にできないことが増え、1年後にはつえを使い始めた。「なぜ自分が」と悔しさがこみ上げ、そんな自分がいやになる-という堂々巡り。周囲に支えられて踏ん張ったが3年半後、地元・京都へ帰る決断をする。4つ下の妹が同じ病と診断されたのだ。自身も車いす生活に入り始め、独り暮らしの限界を感じていた。

発症から4年たつと、休職扱いが可能な期間が尽き、退職した。父親は、妹と2人で暮らせるよう、完全バリアフリーの家を実家の隣に建ててくれた。普及し始めたインターネットも駆使して同病患者とのつながりが生まれると、ようやく「病気と向き合って生きていこう」と思えるようになった。

子供たちと登山

外にも車いすを使って積極的に出始めたころ、知人が京都市内で営む塾の手伝いを頼まれた。放課後の子供たちに大学生が宿題などを教えるところで、得意の英語を教え始めた。その教え子たちが、夏休みに山登りを計画した。「亜希ちゃんはどうする?」と聞かれ、「ごめん。無理だと思う」と答えると、子供たちは不思議そうにこう言った。

「行きたくないの?」

この言葉に、後頭部を殴られたような衝撃を受けた。「私は『できるか、できないか』で判断していて、『やりたいか、やりたくないか』という自分の気持ちを忘れていた。車いすの自分には無理だ、と決めつけていた」

子供たちと初めて挑んだ長野県木祖村の山登り。中岡亜希さん㊨はバギーなどで登った=平成20年8月(本人提供)
子供たちと初めて挑んだ長野県木祖村の山登り。中岡亜希さん㊨はバギーなどで登った=平成20年8月(本人提供)

チャレンジしてみよう-。その決断を、仲間は全力で後押ししてくれた。平成20年8月、軽トラに車いすやバギーを乗せ、標高1700メートルほどの長野県木祖村の山を登った。キャンプでカレーを食べ、一緒に星空を眺めた。当時31歳。これが、「第2の人生のスタート」となった。

諦めるのをやめた

希少難病のため、現在は指先と首をわずかしか動かせない。塾の教え子たちと山登りに挑んだのを機に「諦めるのをやめた」。すると、世界はどんどん広がった。小さな山登りを通じて得られたものは、生き方を根底から変える視点だったという。

「現代医学では治せない進行性の難病を告知され、『大きなものを病気に奪われた』と思っていたけれど、私は意識していないところで『自分の大切なもの』を自分で捨ててしまっていた、ということが情けなかった」と中岡さんはいう。「今の人生は確かに、私が望んだものではない。ただ、病気は仕方がないことでも、いつの間にか自分で捨ててしまったものは、取り戻さなくてはいけない、と思いました」

登山後、子供たちは「次はどこに行く?」と聞いてきた。「もっと高い山?」「じゃあ富士山!」との声が聞こえた。心が動いた。

発症後、「人に迷惑をかけないように生きていきたい」と考えていた中岡さんにとって、登山は「迷惑をかける最たるもの」だった。でも、「みんなと行ってみたい」。素直な気持ちを、これからは大切にしようと決めた。

念願の富士山登頂

その後の展開は、目まぐるしい。21年9月には三浦雄一郎さんらの協力を得て富士山登山に挑戦。ハンドルやタイヤを改良した車いすを、20人近くが押したり引っ張ったりしてくれた。天候悪化のため7合目で断念したが、「もっと登りやすい車いすを探そう」と燃えた。

10月、ドイツ・デュッセルドルフで開催の福祉機器の見本市を訪ねた。テーマは「患者が楽しく生きる」。福祉機器は使いやすさや利便性に主眼が置かれがちだが、「楽しく生きるため」に開発されたさまざまな機器は新鮮だった。

初めての富士山は、車いすを改良して登山に挑んだ=平成21年9月(中岡亜希さん提供)
初めての富士山は、車いすを改良して登山に挑んだ=平成21年9月(中岡亜希さん提供)

そこで見つけたのが、フランス製のアウトドア用車いす「HIPPO(ヒッポ)」。水陸両用で、登山や海水浴での使用例も紹介されていた。何より、「面白そう!」と心が躍った。

自ら会社組織を設立し、ヒッポを輸入。翌年、再び挑んだ富士山では念願の登頂を果たした。同行してくれた仲間に「ありがとう」と言うと、「ありがとう」と返ってきた。驚いた。

重度の障害でも

やりたいことを諦めないことは、さまざまな人に選択肢を示すことでもあり、体験を共有すれば感動も共有できる、と実感した。重度の障害がある自分がどこまでやれるかを示せれば、たくさんの人の可能性も広がり、「諦めなくていい」と伝えられるのではないか-。自分を実験台に「ヒッポでどこまで行けるか」を試そうと、ライフジャケットを着けて海に入り、山に登った。カナダで犬ぞりに乗り、オーロラを追った。

カナダ・イエローナイフで「オーロラを追っかけた」中岡さん=2012年4月(本人提供)
カナダ・イエローナイフで「オーロラを追っかけた」中岡さん=2012年4月(本人提供)

ボードの上に立ち、パドルを漕(こ)いで水面を進む「サップ」をやりたいと、ヒッポをボードに固定した「ヒッポサップ」も開発。仲間に漕いでもらい、湖面を進んだ。タイヤを外してボディーボードを付け、水田での田植え体験にも挑戦した。活動が広がるほど、仕事の幅も広がった。

だが、富士山登山を紹介し、ヒッポを展示した約10年前の東京での福祉機器展では、来場した高齢男性に「人に迷惑をかけるようなことをしちゃダメじゃないか」と苦笑いされたこともある。中岡さんはいう。

車いすをボードに固定して「サップ」にも挑戦した=平成20年、長野・志賀高原(本人提供)
車いすをボードに固定して「サップ」にも挑戦した=平成20年、長野・志賀高原(本人提供)

「障害者は障害者にふさわしい生活をすべきだ、という感覚は、かつて私にもあった。でも欧米では、どんな立場の人も人生を楽しむ権利がきちんと守られ、そのための環境を社会が整えるのは当然なんです。そんな社会になったらすごいと思うし、そのためにできることをやりたいんです」

「誰もが共に楽しむ社会を」

やりたいことを、諦めない-。中岡さんの挑戦は、このまっすぐな軸に貫かれている。さまざまな専門機材を輸入・販売し、どんな人にも適応する技術や旅を提供。活動はそこから、障害の有無にかかわらず共に学ぶ「インクルーシブ野外教育」の普及にも広がっている。目指すのは、「誰もが心から人生を謳歌(おうか)できる社会」の実現だ。

22年、東京で開かれたアウトドアメーカーの展示会に出展した際、「富士見高原リゾート」(長野県)から「ユニバーサルフィールド化」の相談を受けた。信州の雄大な自然を楽しめる同リゾートをあらゆる人に楽しんでもらうには、どうすればいいか。コンサル業を務める中、長野へ拠点を移して痛感したのが、「バリアフリー」の限界だ。

日本では25年に障害者への差別を禁止する「障害者差別解消法」が成立。バリアフリー法も改正され、「世界有数のバリアフリー推進国」とされる。だが、都会はともかく、自然環境をバリアフリーにするには大規模な工事が必要だ。しかも、ありのままの自然を楽しむことはできなくなってしまう。

ならば、バリアフリーの概念を超えよう-と考えた。多様な個人に、アクティビティーを適応させる工夫をすればいいのではないか。海外の福祉機器展を訪ね歩いた蓄積を生かしてさまざまな機器を導入し、工夫を凝らした。人材育成にも取り組んだ。

海外で見つけたフランスの着座式スキー「デュアルスキー」を輸入する際は、障害の有無にかかわらず共に楽しむ「インクルーシブ野外活動」の視点を学んだ。どこのスキー場にも車いすゲートがあり、一般スキーヤーと着座スキーヤーらが一緒に滑走を楽しんでいるフランス。「誰もが共に楽しむ」光景を、日本でも実現したいと考えた。

だが、販売元は厳格で、専門知識と技術を学んで資格を取得した人がいないと売れないと言われた。仲間が渡仏して資格を取得し27年、1年がかりで輸入販売にこぎつけた。現在、日本国内で操縦資格を取得している人は約30人。三浦雄一郎さんの次男で元モーグル五輪代表の豪太さん(52)もその1人だ。今シーズンから、ホームゲレンデの札幌テイネにデュアルスキーを常備し、人材育成も進める計画が進んでいる。

尽きぬ好奇心

5年前、山梨県でのデュアルスキー体験会で中岡さんに出会った信州大学の加藤彩乃講師(35)は、「自分が目指す世界は狭いのでは」と気付かされたという。特別支援学校勤務を経てインクルーシブ教育のスポーツ分野でのあり方を研究してきたが、「『障害のある人がどうすればできるか』という狭い見方だった」と振り返る。「障害のある人とない人が共に学ぶと、確実に生まれるものがある。それがどんな教育的効果かを示すことができれば、社会はもっと変わると思う」

京都府宇治市の自宅の介護ベッドの上で、動かせる指でメールを打ち、電子機器を操作する今の中岡さんは、病を告知された20年前に恐れた「寝たきり」の状態だ。日常生活を営むには介助が不可欠で、治療薬はまだない。だが「どんな人にも可能性を諦めてほしくない」から、自分も「やりたいこと」を諦めるつもりはない。

デュアルスキーを楽しむ中岡亜希さん=平成29年2月(本人提供)
デュアルスキーを楽しむ中岡亜希さん=平成29年2月(本人提供)

次の目標は、フランスのモンブランにある「バレーブランシュ」でのデュアルスキー。フランスの氷河スキーの代名詞ともいうべき名所だ。

「ボーゲンスキーヤーだった私には、行けなかった場所。でもデュアルスキーなら、パイロット(操縦者)の腕次第で、どこにでも行けるんですよ」

子供のような表情で笑った。(聞き手 編集委員、木村さやか)

なかおか・あき 昭和52年生まれ。短大卒業後、日本航空の客室乗務員となり、25歳で「遠位型ミオパチー」と診断される。自ら会社を設立し、海外の福祉機器展で見つけたアウトドア用車いすなどの専門機材を輸入。大学や行政と連携し、あらゆる人が自然を楽しめる世界基準の「アダプティブツーリズム(Adaptive Tourism)」を研究、提供する旅行会社「ata Tours」代表を務め、ユニバーサルツーリズムの普及などにも取り組んでいる。

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