「いらっしゃいませ。よくおいでくださいました」。2021年11月29日、奈良県川上村柏木地区にある老舗旅館「朝日館」を訪ねると、和服姿の女将、辻芙美子が笑顔で迎えてくれた。柔らかい奈良言葉の声が若々しい。なら国際映画祭・ナラティブ部門の新作映画『霧の淵』(仮題)監督の村瀬大智が、脚本は「朝日館や経営する家族をあて書きした」と話していたので会いたくなった。あて書きとは想定して書くことである。
歴史が息づく旅館
朝日館は1881(明治14)年に開業した。現在の建物は大正年間の建築だ。木造2階建てで、斜面を巧みに使う地域独特の技法「吉野建」が採用されており、2階廊下に立つと目の前に苔むした中庭が広がる。戸のガラスはわずかに波打っている。建築当時のままの貴重品だ。
芙美子は1946年、奈良市に生まれた。25歳のとき朝日館4代目の夫と結婚して山里に移り住む。「お嫁に来た昭和40年代、柏木地区は村内で最もにぎやかでした。肉屋、魚屋、八百屋、米屋など商店街では何でもそろい、映画館や芝居小屋もありましたよ」
柏木が栄えたのは修験道の聖地・大峯山の登山口があるからだ。修験道の人たちが泊まる「行者(ぎょうじゃ)宿」として朝日館は繁盛した。「全国から白装束の『講』の方々が利用してくださった。ほら貝の音は絶えることがなかった」と回想する。
しかし、講の数も次第に減り、近年の朝日館は山菜や川魚など地元の食材を提供する料理旅館の色合いが濃くなっている。
芙美子は夫を亡くしたのち5代目経営者として旅館を守り、子供3人を育てた。長男の晋司は82年生まれ。10年間大阪などの飲食店で修業をしたあと、家業を継ぐため2018年に帰郷した。「覚悟を決めて戻ってきた。古里の村が元気になってほしい。映画で取り上げていただくことを契機に何かが始まることを期待する」と語った。
村を挙げて歓迎
映画撮影は、NPO法人なら国際映画祭が川上村に打診した。村は、PRになるうえ風景が映像に残るので歓迎する、と決めた。21年度予算には制作費の一部として500万円を計上。村長の栗山忠昭は「映画は監督の個性次第なので、面白く、自由につくってほしい。映画を見た方に、川上村が森と川を大切にしてきた自治体であることが伝われば幸い」と語った。
村は21年11月号の広報誌で「川上村を舞台に映画を撮影します!」と告知。撮影時には村民らが炊き出しを引き受ける見通しだ。地元産品を中心にした食事の提供を計画している。
ロケハン(撮影地の下調べ)は同年10月13~23日に行われ、観光を担当する同村水源地課の玉井孝明が一行を案内した。「村瀬監督から廃屋で撮影したいとの希望を受けたので6集落をリストアップした。村民と撮影スタッフとの交流も実現できれば」と話す。
同村での撮影は22年3月下旬から4月半ばに行い、朝日館でも予定しているという。
水源地の村づくり
川上村は人口1150人ほど。紀伊半島中央部に位置し、大峯山の北東麓にある。吉野川(紀の川)の源流にあたる。広さ269平方キロメートル。うち山林が約95%を占める林業の村である。洪水被害を防ぎ、水を安定供給するため、村内に大迫ダム、大滝ダムが築かれた。「水源地の村づくり」をうたい、1999年には最源流部の原生林740ヘクタールを購入。森の保全を図った。
なら国際映画祭・ナラティブ映画の次の撮影地が川上村と知ったとき、筆者は「なるほど」と感じた。なぜなら以前に2度、村営の文化施設「匠の聚(むら)」の調査を行ったことがあり、文化政策に力を入れている自治体であるとの印象を持っていたからだ。
人口の少ない村なので移住者を増やしたい。そこで村は99年、芸術家が暮らしながら創作活動できる「アーティスト・イン・レジデンス」のために、匠の聚を開館させた。アトリエ7棟では、陶芸家や木工作家らが居住しながら創作活動を行っている。
1150人余の村だけに、芸術家が1人移住することは実に貴重なのである。人口約1300万人の東京でいえば、ざっと1万人の芸術家が移り住む計算だ。村長の栗山は、訪れた筆者に「私たちの発信力には偏りがある。芸術家が村の活性化に貢献し全国に魅力を発信してくれるはず」と期待を語っていた。
匠の聚にはギャラリーを設け、アトリエの芸術家のほか、村内に移住してきた作家らの作品展を行う。さらに陶芸教室などを催し、アート作品に触れることができるようにした。宿泊者を迎えるコテージ、イベント広場も併設した。毎年5月に、匠の聚で年に1度のアートフェスティバルを開催する。この時期の村には赤紫白の芝桜が咲き誇る。
村の外郭団体である一般財団法人「グリーンパークかわかみ」が、匠の聚、政府登録国際観光旅館のホテル杉の湯(98年開業)を経営して観光客を誘致する。村では積極的に空き家を探して都市部からの移住者を迎え入れる施策に取り組む。村を維持するために懸命の努力が続けられている。
背景には、奈良県南部の中山間地における著しい過疎化がある。国勢調査によると、70年の川上村の人口は6020人だった。しかし、2000年では2558人、05年には2045人(前回国勢調査比513人減)、10年には1643人(同402人減)、15年には1313人(同330人減)、20年には1156人(同157人減)と減少傾向にある。
ただ数字をよく見ると、減少者数が次第に小さくなっている。先に述べた努力が一定の効果を発揮してきたようなのだ。こんなとき、なら国際映画祭のナラティブ映画の撮影企画が同村に持ち込まれたわけである。
修験道の行者が歩いた山里
朝日館のある柏木地区は村役場から車で20分ほど。かつて修験道の行者が行き交ったほか、東熊野街道の宿場町でもあったので、往時には10軒の旅館が立ち並んでいたそうだ。文豪・谷崎潤一郎の作品『吉野葛』にも登場する。
朝日館はレトロな木造旅館として近年、注目されている。たとえば21年3月に放送されたNHK・BS番組「美の壺」の「和食の原点 ごはん」では、かまど炊きの香ばしい朝ごはんを提供している様子が紹介された。料理だけでも楽しめ、アマゴ、アユなどの川魚、ボタン鍋、山菜料理が提供される。
女将の辻芙美子は毎年秋、現役のかまどを用いて自家製のユズ羊羹をつくる。食するとユズの香りが口の中に広がって実に美味である。同館裏庭にはユズの木が生育して黄色い実をつけるので、高枝切りはさみでユズを採る。ロケハンを通じて芙美子、晋司の親子と親しくなった『霧の淵』(仮題)監督の村瀬大智は、21年11月に3回も朝日館を訪れ、ユズ採りを手伝った。
先に触れたように、柏木地区は修験道の根本道場である大峯山(世界遺産)の登山基地として栄えた。山上ヶ岳(1719メートル)の山頂にある大峯寺は毎年5月3日の「戸開き」から9月23日の「戸閉め」まで参拝者や登山者が訪れる。大峯山への登山ルートは、熊野からや、吉野からなど複数ある。
朝日館には現在も修験道の「講」の一行が宿泊する。100人規模の大人数を迎え入れることもあるという。館内には往時の行者の写真、木札などが残されており往時をしのばせる。
白装束を身に着けた修験道の行者が歩いてきた川上村で、今は映画づくりが行われる。山里に人々が行き交うことで、何らかの好影響が生まれるに違いない。=敬称略
(静岡文化芸術大学教授 松本茂章、写真も)
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まつもと・しげあき 専門は文化政策研究、文化を生かしたまちづくり政策。日本アートマネジメント学会会長、文化と地域デザイン研究所代表、法政大学多摩共生社会研究所特任研究員。全国各地の文化施設や文化事業を訪れて調査している。単著に『官民協働の文化政策』、単独編著に『文化で地域をデザインする』など。