九州本土と朝鮮半島の間に位置し、「国境の島」と呼ばれる対馬(つしま)島(対馬)。古来、外交拠点であり、度重なる動乱の時代も日本と大陸の〝架け橋〟として重要な役割を果たしてきた。
今年1月、対馬で島民が演じるミュージカル「対馬物語」を観劇した。史実に基づいた物語で、対馬を治めていた宗家の当主で後に対馬藩初代藩主となる宗義智(よしとし)に、キリシタン大名の小西行長の娘、マリアが嫁ぐ場面から始まる。
小西行長は豊臣秀吉の信任が厚い武将で、この婚礼は朝鮮出兵への布石だったといわれる。1592(天正20)年、秀吉は朝鮮出兵を決行すると、義智に全軍の先遣隊を命じた。それまで朝鮮と友好関係を築き、朝鮮貿易を生命線としていた対馬にとって、苦渋の出陣だった。6年に及ぶ朝鮮出兵は、秀吉の死によって収束する。
徳川幕府が誕生すると、一転して、幕府は義智に朝鮮との和平回復を命じる。日本を不倶戴天(ふぐたいてん)の敵とする朝鮮に、義智は有能な使者を次々と送り、ついには大罪を覚悟のうえで徳川家康から朝鮮への国書の偽造までして、国交回復にあたった。
粉骨砕身の努力が実り、朝鮮は1607(慶長12)年に回答兼刷還(さっかん)使という外交使節団を日本に派遣する。それは偽造された国書への「回答」と、朝鮮出兵の際に捕虜となった朝鮮人を帰国させる「刷還」が名目だった。
この使節団は次第に、徳川将軍の代替わりに伴う「祝賀」が目的となった。名称も朝鮮通信使と称されるようになり、約200年の間に計12回日本を訪れた。対馬藩は朝鮮から江戸までの往復の警護にあたり同行した。往復4千キロにわたる道中は、時に最長8カ月にも及んだ。
朝鮮通信使に関する記録は、ユネスコ「世界の記憶」に登録されている。対馬市厳原(いづはら)町の対馬朝鮮通信使歴史館では、来日する使節団や国交回復後の朝鮮貿易などの記録がパネルやジオラマ、映像で紹介されている。
同町に、朝鮮出兵の前年に築かれた清水山城があり、本丸からは海を見渡せる。また、宗家の菩提(ぼだい)寺の万松院(ばんしょういん)は、島民の心のよりどころで国指定史跡だ。堂内には朝鮮国王から贈られた三具足(みつぐそく)と徳川将軍の大位牌(いはい)が並び、〝架け橋の対馬〟がうかがい知れる。
韓国の釜山には江戸時代の鎖国中、当時唯一の在外公館「倭館」があった。約500人の対馬藩の人たちが住み、朝鮮とよしみを結んでいたという。ミュージカルでは、「島は島なりに治めよ」という宗家に伝わる言葉が印象的だった。流動する時代の波に、うまく従い、うまくあらがう。国境の島の「誇り高く生きる術」に、今の時代をどう生きるか学びたい。
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■アクセス
福岡の博多港からフェリーと高速船が運航。長崎や福岡からの空路もある
■プロフィル
小林希(こばやし・のぞみ) 昭和57年生まれ、東京都出身。元編集者。出版社を退社し、世界放浪の旅へ。帰国後に『恋する旅女、世界をゆく―29歳、会社を辞めて旅に出た』(幻冬舎文庫)で作家に転身。主に旅、島、猫をテーマにしている。これまで世界60カ国、日本の離島は120島を巡った。