多くの命を奪うとともに、街を一変させた東日本大震災。「何かできることはないか」との一念から、がれきに埋め尽くされた被災地で田畑を緑の芝生に再生させた技術者がいる。未曾有の被害をもたらした震災から11日で11年。ゼロからのスタートだった当時を振り返りつつ、被災地で根をはる芝に復興への思いを託している。
防護服を着た作業員が放射線量を測る物々しい雰囲気の中、伸び放題の芝の上に無造作に置かれた資材-。東京電力福島第1原発事故から約1カ月後の平成23年4月、福島県楢葉町のサッカー施設「Jヴィレッジ」で、松本栄一さん(66)=京都市左京区=は手塩にかけたピッチを前に立ち尽くした。
「あの状況では仕方がなかったが、日本代表も使っていたグラウンドが見る影もなくなっていたのは辛かった」
一方で、変わり果てた被災地や余震におびえる被災者の様子を目の当たりにし、「何かできることはないか」との思いを募らせていった。
日本初の西洋芝導入
芝生作りにかかわり始めたのは、浦和市(現さいたま市)職員だった平成3年。全くの素人だったが、5年のJリーグ開幕を前に浦和駒場スタジアムの芝生養生を担当することになった。多くの文献を調べドイツや英国などを視察し、寒さに強く冬でも変色しない西洋芝の導入を日本で初めて成功させた。こうした功績が評価されて独立。8年から任されたのが、Jヴィレッジの芝生管理だった。その後、関西にも拠点を置いて福島と行き来するようになっていた中で、東日本大震災が発生した。
寝転ぶ子供の笑顔
「グラウンドを作ってくれないか」。まだ被災地ががれきに覆われ、混乱が続いていたころ、声がかかった。相手は、宮城県出身で、日本サッカー協会の復興支援特任コーチとして被災各地を回っていた元日本代表の加藤久・現J1京都サンガ強化アカデミー本部長(65)。仮設住宅の建設場所に学校のグラウンドなどが使われており、子供たちに遊び場を提供したいとの依頼だった。震災はさまざまな面で子供たちにも影を落としていた。
震災から1年3カ月後の24年6月、岩手県陸前高田市で、現地の子供やボランティアら300人以上の協力を得て芝生の養生に取り組んだ。大切なのは根付くまでの最初の1カ月。毎日午前3時から水をまき続け、3カ月かけてがれきの山だった田畑を芝のグラウンドへと変貌させた。
印象的だったのは、子供たちが走り回る様子ではなく、あおむけに寝転がっている姿。「いい芝生はフカフカだから寝ころびたくなる。納得のいく出来栄えだった」との喜びがこみ上げる。今ではJ1川崎フロンターレなども利用するプロ御用達のグラウンドだ。
完成後は芝生の様子を確認するため、毎年現地を訪れていたが新型コロナウイルス禍で訪問できていない。それでも住民に管理方法を指導し、現在でも美しく刈りそろえられた芝生がそこにはある。
「震災で苦しんだ子供たちを笑顔にさせる力になった復興のシンボルとして後世に伝えていきたい」
脳裏には、被災地の子供たちの笑顔と青々とした芝生が刻まれている。(鈴木文也)