本郷和人の日本史ナナメ読み

上総広常の謎㊦晩年の頼朝が招いた「失望」

浮世絵師・歌川国久が描いた九尾の狐に矢を射る上総広常(船橋市西図書館所蔵)
浮世絵師・歌川国久が描いた九尾の狐に矢を射る上総広常(船橋市西図書館所蔵)

建久7年の政変、と呼ばれる事件があります。源頼朝は長女・大姫が後鳥羽天皇の后(きさき)となることを望んでいた。それを実現するためには、天皇の庇護(ひご)者である源通親(みちちか)、後白河上皇の寵姫(ちょうき)で皇室関係にさまざまな影響力を有する丹後局と連携するのが効果的であると考えられた。ところが通親や丹後局は、頼朝が長年朝廷におけるパートナーとしていた九条兼実(かねざね)と対立していた。何としても大姫入内(じゅだい)を成功させたい頼朝は兼実への後援をやめ、通親と結ぶことにした。そのため、建久7(1196)年、関白であった九条兼実は一門とともに失脚し、通親が朝廷の実権を掌握した。だが、兼実の追い落としに成功すると通親は掌(たなごころ)を返し、大姫の入内を妨害した。大姫は翌年病没し、頼朝が得たものはなかった。彼は通親にまんまとしてやられたのであった―というのです。

政変は頼朝の死の3年前。今までの政治史では、晩年の頼朝が対朝廷工作で大きな過ちを犯した、と評価されていました。対朝廷政策に失敗した頼朝は御家人の信頼を失った。それでついに3年後、彼は暗殺されてしまう。さすがに真実を書けないので、『吾妻鏡』には頼朝の死の前後の記事が欠けているのだ。そんな説明も以前に読んだ気がします。でも、頼朝が暗殺されたというのは論外だとしても、御家人が頼朝の失敗に失望したというのもおかしいのではないか。ぼくはその解釈にずっともやもやを感じていたのです。うまく言語化できぬまま。でも、最近になってようやくその奇妙さを説明し、ぼくなりの解説が可能になりました。

そもそも、頼朝は兼実というパートナーを失った、それで鎌倉でがっかりされた。この説明は2つの意味で、当たりません。兼実という人は藤原本家の御曹司できわめて有能でしたが、直ちに執政になれる人ではなかった。近衛基実、松殿基房という兄がいたからです。その彼に注目して後援し、連携して後白河上皇の強力な権力に立ち向かおうとしたのが、鎌倉の源頼朝でした。ですから、この二人の関係の主導権は頼朝の側にあったのです。もし通親の正体を知って「あ、間違えた」と思ったのなら、頼朝はいつでも兼実と関係を修復することができた。兼実を失ったことはいつでも挽回(ばんかい)が可能だったのです。

それからもう一つ。そうした朝廷との政治的な関係を、どれだけの鎌倉御家人が理解していたか。大江広元ら文官は分かっていたでしょう。けれども生粋の武士である、すなわち朝廷の重要性をあまり理解できていなかった御家人たちが、頼朝の対朝廷行動を的確に評価できたとは思えません。兼実と手を切った、ということが御家人たちの失望を呼んだとは考えにくいのです。

でも、それなら建久7年の政変を御家人たちはどう見たのか。「頼朝さまは大姫さまの入内を画策していたそうな。相当な贈り物を京都に運んだというぞ。どうしていつもいつも、朝廷だ、天皇だ、と気にするのだろう。大きな声でこれを言うと、主への許しがたい批判ということになるらしくて、上総広常どのは始末されたからなあ。まあ、おとなしくしているか。言うなかれ、言うなかれ」。多くの御家人はそう感じていたのではないか。

くり返しになりますが、鎌倉の軍事権力の正統性を得るために、頼朝は「京都とは物理的な距離をとる。だけど、朝廷の重要性はしっかり認識し、京都との交渉は絶えず行う」。上総広常は「京都は京都。鎌倉は鎌倉。オレたちの正統性は武力がもたらしてくれるので、京都のことなんて知らないよ」。この意見の対立が広常誅殺(ちゅうさつ)につながります。

大姫を天皇の后に。頼朝はさらに朝廷との連携を深めようとしている。平清盛の「朝廷内部に勢力を扶植する」に接近しているとさえ評せる。いや、オレたち関東武士は、頼朝さまが天皇の外戚(がいせき)になることなんて望んでないぞ。そんな路線をとった平家は、武士であるくせに、オレたちの代表ではなくなったじゃないか。だから滅んだ。というか、オレたちが滅ぼした。頼朝さま、それを忘れたわけじゃあるまいに。所詮は京都育ちのお坊ちゃまなのかなあ。おかしいなあ…。多くの御家人がそう思ったのではないでしょうか。朝廷に近づきすぎた。これこそが、頼朝晩年の失敗だ、というのが正しい評価だと思うのです。

そうした頼朝の意図を理解し、彼に忠実に行動していたのが梶原景時。だから、景時は頼朝が没すると、あっという間に弾劾され、誅殺された。それは豊臣政権における石田三成と同じ。三成は秀吉亡き後に彼を守ってくれた前田利家が没したその晩に、朝鮮出兵に批判的であった加藤清正らの襲撃を受けた。

それから、さらに時代が下ると、後鳥羽上皇との主従関係を大切にし、家庭教師を派遣してもらい、貴族の嫁をもらった源実朝は暗殺される。あれ、ということは…。ぼくは実朝暗殺の黒幕は先学の言うとおり北条義時だと思っていますので、義時こそは上総広常の後継者だということにならないかな…。

■上総広常と九尾の狐(きつね)伝説

平安後期、玉藻前(たまものまえ)という美しい女官に化けた九尾の狐が鳥羽上皇をとり殺そうとしたところ、陰陽師(おんみょうじ)に見破られて那須野(現栃木県)に逃げ去った。朝廷は近隣の有力者である上総広常らを将軍とした討伐軍を編成し、同地で狐を追い詰めたという。その伝説を題材にしたのが幕末の浮世絵師、歌川国久(二代目)によるこの絵(3枚続きのうち左部分)。馬上の広常が正体を現した狐に矢を射かけ、とどめを刺そうとするシーンを描く。退治された狐は毒石に姿を変え、それが観光名所として名高い栃木県那須町の国指定名勝史跡「殺生石」だと伝わるが、なんとこの殺生石、つい数日前に割れてしまったとのこと。

【プロフィル】本郷和人

ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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