母は繰り返し、繰り返し、こう語りかけてくれた。
「何もかもは、できなくてもいい。だから、みんながやりたくないこと、できないことを勇気を持ってできるようになりなさい」
あの日、まだ小学3年生だった。20歳になった今、子供たちを支える人になりたいと思う。自分と同じ境遇を過ごす子供たち。「遺児」の子たちを。
平成23年3月11日、岩手県陸前高田市。
「津波がくるぞ!」
叫ぶような声を聞いて、小学校の校庭から高台に駆け上がった。怖くはなかった。「津波」の意味が分からなかったから。
逃れた高台の高齢者施設で家族を待ち続けた。翌日、父の貢さん(58)と再会したが、母と、2人の妹は行方不明。父は3人を捜し続け、新田さんは待ち続けた。
海まで約1キロの距離にあった自宅は全壊。曽祖母の家に避難していたとき、知らせを受けた。
3月19日に、琳ちゃん=当時(6)。20日には母の牧恵さん=同(36)、27日には麗ちゃん=同(4)。みんな津波で命を落とした。
「実感がわかなかった。それから生活や環境が一気に変わって。悲しさはあったけど、環境についていくのが精いっぱいだった」
仮設住宅で父との2人暮らしが始まった。悲しみに暮れる父の酒量は増えていった。
自分の悲しみのやり場はどこに。複雑な思いがあった。それでも、「一番つらいのは父親。だから、自分がしっかりしないと」。そう言い聞かせた。
親を亡くした子。学校ではみんなが気遣ってくれた。それが、嫌だった。
「今では理解できるし、感謝している。だけど、みんなと同じように接してほしかった」
震災後、遺児を支援する「あしなが育英会」が開く遺児の集いに参加するようになった。
「同じような経験をした仲間がいて、気を使わずに過ごせた。気が楽になれる場所だった」
居心地のよさ。そう感じるような人との接し方に気づかせてくれたのは、2人の妹、そして母の言葉だったかもしれない。
震災当時、2人の妹はやんちゃ盛り。共働きだった両親の代わりに、よく面倒を見ていた。絵本を読んだり、ゲームをしたり。
「手を焼くことも多かったけど、身近な人の大切さを感じたし、やさしくなれるようになったきっかけになった」
母の言葉があったから、みんながやりたくないことを率先して引き受けた。小学校の児童会長にも手を挙げた。
中学3年のときに訪ねたフィリピン。路上生活する遺児の子供たちに出会った。
「自分より生活が大変な子供たちが、明るく生きている。どんな境遇でも、幸せになろうと思えばなれるのかな。そう前向きに考えられるようになった」
東京の大学に進学し、災害時にもつながるネットワーク技術を学んでいる。震災当時、通信環境が悪化し、家族や親戚と連絡を取るのが難しかった経験が根っこになる。
新型コロナウイルス禍で人と対面することがままならない学生生活。自分自身と向き合うことも増えた。そして、支援を受けた側から、支援する側に立ちたいという思いが強くなった。
「子供たちと直接関わって、自分が経験したことを伝えていきたい。いろんなことにチャレンジしてほしいから」(本江希望)