小林の実家は鳥取県東伯郡赤碕町(現琴浦町)にある。筆者は小林の両親(父・進、母・悦子)と面識があった。運よく進さんが出た。
「まだ、そういう連絡は入っていませんね」という。少しがっかりした。すると「ただ、思い当たる節はあります」と、進さんは静かに話し始めた。
「2、3年前からあの子は〝ボロボロになるまで投げるよりも、惜しまれて辞めたい〟と引き際を考えていたようです」
――今年(昭和58年)になってそんな話はしましたか
「ええ、春先に一度。そのとき私が〝今年辞めたら〟というと〝まだ、そういう気持ちにならんよ〟といってました。もしかしたら、気持ちに変化があったんじゃないでしょうか」
――というと
「ことし10勝の壁は越えたけれど、あの子自身、力の限界を感じているようです。17日の広島戦で先発しなかったので、何かあるんじゃないかと感じていました。中5日も開いているのに、中2日の工藤さんが出てくるのはおかしい。あの子なりに考えて先発を辞退したんじゃないでしょうか」
進さんの話は驚くほど具体的だった。
小林は10月12日の大洋戦(横浜)に先発したが、一回、レオンの28号3ランのあと田代に中前打、屋鋪に右翼線にタイムリー二塁打されて4失点。わずか40球で降板した。
その夜、横浜の宿舎では安藤監督―小林の話し合いがもたれ、小林は残り試合をリリーフにまわることが決定していた。
「繁が抑えに? それは考えられません。抑えになってあと何年かやるよりも、8年連続2ケタ勝利を〝誇り〟にして本人が辞める気になったんじゃないでしょうか」
筆者は最後に聞いた。お父さんは「引退」をどう思いますか―と。
「私も辞めた方がいいと思います。引き際を考え、みなさんから惜しまれる形で辞めてほしい」
その夜、小林自身の言葉は取れなかった。だが、進さんの話から、翌10月19日のサンケイスポーツの1面には『小林引退』『さらば阪神よ』のスクープが載ったのである。(敬称略)