疫病と人間 司馬遼太郎が残した50年前の〝予言〟 菜の花忌シンポジウム

「胡蝶の夢 新型コロナ禍を考える」をテーマに開かれた第25回菜の花忌シンポジウム。左から司会の古屋和雄氏、澤田瞳子氏、澤芳樹氏、村上もとか氏、磯田道史氏=2月12日、東京都千代田区(飯田英男撮影)
「胡蝶の夢 新型コロナ禍を考える」をテーマに開かれた第25回菜の花忌シンポジウム。左から司会の古屋和雄氏、澤田瞳子氏、澤芳樹氏、村上もとか氏、磯田道史氏=2月12日、東京都千代田区(飯田英男撮影)

作家、司馬遼太郎さんをしのぶ「第25回菜の花忌シンポジウム」(司馬遼太郎記念財団主催)が、命日にあたる2月12日に東京・有楽町のよみうりホールで開かれた。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、無観客での開催となった。テーマは「『胡蝶の夢』―新型コロナ禍を考える」。将軍らを診療した幕府奥医師から維新後に初代陸軍軍医総監となった松本良順ら蘭方医たちの幕末を描いた同作について、医師で大阪大名誉教授の澤芳樹さん、医療漫画『JIN―仁―』で知られる漫画家の村上もとかさんら4人のパネリストが熱い議論を交わした。

医学を克明に描く小説

--コロナ禍で『胡蝶の夢』をどう読んだか。また司馬さんとの出会いは

澤田 最初に読んだのは小学校高学年から中学にかけてです。司馬作品を片っ端から読んでみようとした時期で、長い作品なので苦労した記憶があります。後で読み直して感じたのは、医療は小説になるんだ、という純粋な驚きでした。医学史は面白いというのが頭の片隅に残って、その後に自分自身が小説家になってみると、「なんてことをしてくれたんだ、司馬さんは。私だって書きたいじゃないか!」と(笑)。

作家の澤田瞳子氏(飯田英男撮影)
作家の澤田瞳子氏(飯田英男撮影)

私は松本良順を書きたいんですよ。それも幕府の奥医師としてではなく、江戸開城以降の変わっていく時代の中で、会津まで付いていった良順に興味がありまして。でも、これだけの作品があると書けない。今回のシンポにあたって読み返し、やっぱり「なんてことをしてくれたんだ」という思いが強いです(笑)。

 私は大学時代、大河ドラマが司馬さんの作品をよく取り上げていたころ、『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』を読みました。以後は読みあさっていないのですが、息子が高校生のころに持っていた『燃えよ剣』を取り上げて読んでみたらまた面白くて、それから次々と、ほとんどの本を読ませていただきました。

『胡蝶の夢』に関しては、澤田先生がおっしゃったように、医学のことが克明に書かれています。私が大阪大学医学部長になって医学の歴史を教えようとしたとき、司馬さんの本が教科書になりました。われわれ医者は、世の中に報告されている学術研究を徹底して調べ上げ、その上でまだ書かれていない新しいものを発表するのが仕事です。司馬さんも作品執筆にあたって、神田の古書店で関連書をほとんど買い上げてしまったというほど、徹底的に資料を読まれた上で書かれている。そこにまず安心感を覚えます。それからもう一つ、私が卒業した大阪大学医学部の源流は、緒方洪庵先生の適塾にある。大学の歴史の中で当たり前に出てくる先生方を克明に表現されているところに、すごく感銘を受けました。

医師の澤芳樹氏(飯田英男撮影)
医師の澤芳樹氏(飯田英男撮影)

村上 司馬作品との出会いは結構遅く、『竜馬がゆく』『坂の上の雲』を読み始めたのは漫画家デビューの後でした。そこからはまってしまいまして。司馬さんの書かれる小説世界というのは、作中の青年たちが生きていた時代背景や社会が非常に細かく描かれている。それまでの娯楽中心の時代小説とは全く違うことに驚かされました。幕末から明治という時代の物語を漫画で描いてみたいという気持ちは、そこから芽生えたんだと思います。それが何十年かたって『JIN-仁-』という作品になりました。

もともと未知の蘭方医学を究めようと苦闘していた江戸時代のお医者さんに関心があり、いろんな小説を読んだのですが、それをそのまま物語にするのではなく、もし現代のお医者さんがその時代に行ってしまったらどんなことができるんだろうか、というところに興味を持って描いたのが『JIN-仁-』です。

漫画家の村上もとか氏(飯田英男撮影)
漫画家の村上もとか氏(飯田英男撮影)

磯田 司馬さんは『胡蝶の夢』の前に『翔ぶが如く』を書いていた。『翔ぶが如く』は西郷隆盛や大久保利通の物語で、明治維新で世の中が変わっていく様子を描いた作品ですが、それを調べる中でどうしても医者の資料に行き当たる。幕末は大村益次郎など医者出身の軍事家が出てきて、西洋的兵学で幕府軍が敗れるのですが、もう一つ、人間相手の戦争だけでなく、病気とも戦っていた時代です。戦争が社会を変えるのは誰でも分かりますが、疫病も社会を変えるということは、われわれは散々コロナで分かりましたけど、その前から司馬さんは書いていた。

『翔ぶが如く』で書いたのは車で言うとハンドリング、制御系で、要するに世の中をコントロールする指揮官たちの物語。でも実際に維新へ向かう駆動力については、エンジンつまり駆動系を分析しなければならない。司馬さんはハンドリングの分析をやった後に副産物として、本当はこれが主産物なのですけれど、膨大な記憶力で回想録を残したお医者さんたちの記録をもとに、なぜ江戸の身分制が壊れて明治が来たのかというエンジンの部分を蘭学をキーワードに描き切った。それがこの『胡蝶の夢』だと思うのですね。

歴史学者の磯田道史氏(飯田英男撮影)
歴史学者の磯田道史氏(飯田英男撮影)

身分制への問題意識

--『胡蝶の夢』を通じた現代へのメッセージとは

澤田 この作品は医療の物語であり、幕末の動乱の中で医者たちが蘭学をどう受容して時代の変革を経ていくかという話なのですが、もう一つ司馬さんが描こうとしたものは、医学に代表される知性というものの平等性なのかなと思います。さまざまな身分の医師が出てくるのですが、知ること、学ぶことが平等であることの代表例として医術が描かれています。

今の社会は知ること、学ぶことが軽視されがちで、時間をかけ腰を据えて学ぶことは要領が悪いとすら捉えられかねない。でも知ることというのは、どんな人も平等に得る権利であり、経験であると思うんですよ。そういったことが軽視されている世の中だからこそ、司馬さんが描いている知識というものの平等性をもう一回考え直すべきなのかなと思いました。

 50年近く前に書かれた小説ですが、テーマはコロナ禍の今とリンクしています。私たち医者は最先端の、世界でもトップの医療をやっていると思い込んでいました。ところがコロナ禍になって、医師として何もできなかった。目の前の人を助けることができない。病院に患者さんが来ても、十分に治療をすることすらできず、救急車の中で亡くなる。あってはならないことが起こってしまった。そんなことが50年後にあると司馬さんが想像されていたのかは分かりませんが、この『胡蝶の夢』に描かれた社会や人間性、医療のあり方は、全く今に通じる。

100年前にはスペイン風邪があり、かなりの人が亡くなりました。今後も新たな病気が出てきたとき、われわれは無防備で何もできないということがずっと繰り返される。そのとき人間はどうやっていくのかを、この作品は教えてくれるのだと思います。

村上 感染症と人間の歴史は、つくづくエンドレスだなと感じます。苦みをかみしめながら毎日を過ごしているのですが。幕末から現代に至るまで、漫画を描いていて、こんなにも同じなの、という現象が社会にあらわれる。たとえば、ワクチン供給における南北問題のような、貧富の差からくる治療の格差。あるいはワクチンを受けられるのに反対する人など、こういう論点はその時代もあっただろうし、これからもあるんじゃないか。

人間と感染症というテーマは、これから50年後、100年後もまた起きていくんだろうなと今回思い知りました。喉(のど)元過ぎれば熱さを忘れるではなく、このことをどう伝えるべきか、何よりどう社会を変えていくべきかを、真剣に考える機会を与えられたのではないか。そのことを約50年前に予言してくださったのが『胡蝶の夢』だったのではないかと思います。

磯田 これは身分制を壊す物語で、日本社会が長期的に駄目になるのは、日本人が自分たちを病気にしてしまうような身分制にこだわるからだということに司馬さんは気づいていた。日本は蜂の巣社会というか、(ミツバチの巣に似た)ハニカム構造のような狭い巣穴の中にみんな住んでいて、それぞれ役割が与えられている。ちょっと専門外や他の人の利権に手を出すと一斉に針で攻撃を始めるけど、自分の巣穴を守っている限りは極めて快適な社会だ、と司馬さんは言うわけです。ただこの構造は、縦に押す力には強いのですが、横から破いたら簡単に壊れる。

司馬さんは日本の敗因について2点、土地のあがりと学歴のあがりで人が過剰に食べ過ぎていないかを、生涯作品で問い続けています。日本が衰退してどんどん他国に追い抜かれていく中で、また土地と学歴という身分制の問題が起きてはいないか。そのことを、この作品を読みながら考える必要があると思います。

たとえば日本では大組織に所属すると、貢献度に見合わないような収入が来る。この仕組みの最初は、どんな親の元に生まれるかという、いわゆる「親ガチャ」で決まるわけです。親に経済力があれば、塾に行かせてもらって学歴が付く教育を受けられ、良い学歴があれば今度は「就職ガチャ」の抽選券がもらえる。そうして大組織に所属できれば、下請けに丸投げ発注したりして、自分で何も作らなくても中抜きで良い収入が得られたりする。やはり今の日本、江戸時代の末期に武士が何もせず領地からふんだくっていて、みんな品のいい悪気のない人たちなんだけど、世界の変化に対応できなくなったのと同じになってはいないか、という危惧はありますね。もし司馬さんが生きていたら、この問題はものすごく語りたかったところです。

『胡蝶の夢』 蘭方医たちの視点から幕末を捉えた長編小説。幕府の奥医師として将軍の侍医を務め、明治維新後は初代陸軍軍医総監となった松本良順と、語学の天才ながら社会性に乏しい島倉伊之助(司馬凌海)、世俗的栄誉を辞して庶民医療に尽くした関寛斎の3人を中心人物として、「病の前の平等」を前提とする西洋医学の移入が江戸の身分制社会を変えていったダイナミズムを描き出す。(新潮文庫・全4巻)

パネリスト

いそだ・みちふみ 昭和45年、岡山県生まれ。慶応大大学院文学研究科博士課程修了。国際日本文化研究センター教授。平成15年、『武士の家計簿』で新潮ドキュメント賞。27年、『天災から日本史を読みなおす』で日本エッセイスト・クラブ賞。著書は『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』『感染症の日本史』など多数。

さわだ・とうこ 昭和52年、京都府生まれ。同志社大大学院文学研究科博士課程前期修了。平成23年にデビュー作『孤鷹の天』で中山義秀文学賞を受賞。『満つる月の如し 仏師・定朝』で新田次郎文学賞、『若冲』で親鸞賞。令和3年、『星落ちて、なお』で直木賞。著書に『能楽ものがたり 稚児桜』『駆け入りの寺』など。

さわ・よしき 昭和30年、大阪府生まれ。55年、大阪大医学部卒業後、同大医学部第一外科入局。平成18年に同大教授。外科医として医療現場に立つ傍ら、重症心不全に対する再生治療の研究に尽力。令和3年に退官し、同大名誉教授。同年、大阪警察病院院長に就任。日本医師会医学賞など受賞多数。令和2年、紫綬褒章。

むらかみ・もとか 昭和26年、東京都生まれ。47年、週刊少年ジャンプに掲載された「燃えて走れ!」でデビュー。57年、『岳人列伝』で講談社漫画賞少年部門、59年に『六三四の剣』で小学館漫画賞少年部門を受賞。平成23年、『JIN-仁-』で手塚治虫文化賞マンガ大賞。作品は『龍-RON-』『侠医冬馬』など多数。

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