戦国に覇を唱えた織田信長と10年にわたる合戦を繰り広げた末に、焼失したとされる大坂(石山)本願寺(大阪市中央区)。大阪平野を南北に延びる上町台地の北端に広がっていた本願寺教団の拠点跡には、豊臣秀吉によって絢爛(けんらん)豪華な大坂城が築かれた。地下に埋もれたと推定されるものの、遺構などは一切見つかっていない大坂本願寺だが、周辺に設けられていた寺内町の推定地から、火災の痕跡を残す陶磁器が出土している。大坂本願寺だけでなく、寺内町までもことごとく焼亡したと記録にはある。この陶磁器はそんな悲劇の歴史を伝えている。
鎌倉時代初期、親鸞(しんらん)によって開かれた浄土真宗は、本願寺八世・蓮如(れんにょ)の時代に大きく勢力を伸ばし、明応5(1496)年には、「摂津東成郡生玉庄大坂」に、大坂坊舎を建立。この坊舎を取り巻くように、門徒らが住む寺内町が造営された。櫓や塀など防御設備も設けられていたという。
本願寺教団の拠点にしていた山科本願寺(京都市)が天文元(1532)年、近江守護の六角定頼や日蓮宗徒らに襲われて、焼き払われたため、本願寺十世・証如は大坂に移り、大坂坊舎を大坂本願寺として拡大させていった、という。
「大坂は日本一の土地。奈良、堺、京都に近く、鳥羽・淀(京都市)から大坂の町口まで舟で直結し、四方が自然の要害になっている。…そこに近隣諸国から門徒が集まった。加賀(石川県)から城郭の技術者を呼んで、八町(約870メートル)四方に敷地を整え、中央の高台に『水上の御堂』とよばれる堂宇を建立し…仏法繁栄の霊地を慕い、民家が建ち並び…」