東京都台東区の浅草1丁目1番地1号。浅草の玄関と言わんばかりの所番地で、人々は琥珀(こはく)色の時間に酔いしれてきた。創業明治13年の「神谷バー」で、神谷傳兵衛が生んだ「電気ブラン」(現品名・デンキブラン)だ。
ブランデーをベースに、ジン、ワイン、キュラソー、薬草などがブレンドされた琥珀色の酒。ほんのりとした甘みに隠れた、アルコール45度という強さ。
「酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはない」(太宰治「人間失格」)
「あの『電気ブラン』というやつを私は愛好していたね。あれは安くて、なかなかうまい酒でしたよ」(小林秀雄「新潮」昭和26年2月号、徳川夢声との対談「常識問答」)。
雷門から徒歩1分。神谷バーの5代目、神谷直彌(57)は「近くに観音様(浅草寺)があり、人出を期待してこの場所を選んだと聞いています」と語る。
今はアルコールを30度に下げ、グラス1杯は300円(40度の「オールド」は400円)。一口、また一口と含むと、浅草の歴史がグラスに浮かぶ。
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傳兵衛は最初、酒の量り売りで資金を集め、明治15年に輸入酒精を用いた「速成ブランデー」を作った。電気ブランはこれを源流とし、約10年後に誕生している。
電気ブランの名は、最先端のものに「電気」を冠した時代を反映している。評論家の神山圭介は著書「浅草の百年 神谷バーと浅草の人々」(昭和55年)で、「これほど評判になったのは(中略)まだ電気というものの摩訶(まか)不思議な作用が庶民にとって驚異であった時代に、その商品名を『電気ブランデー』とした着想にあった」と名づけた傳兵衛をたたえている。
日本初のエレベーター付きビル「凌雲閣」、浅草オペラ、活動写真…。あふれるような当時の最先端が、伝統的な風情と溶けあっていた浅草。電気ブランは「浅草以外の土地では、あれほど人びとの心に根づくことはなかった」と神山は書く。
米国人の日本学者、サイデンステッカーは、浅草を「新宿のバーに厭気がさし、銀座のバーが余りにパリー的になり過ぎ、そこに来る人々のベレー帽や片仮名まじりの言葉が気障(きざ)でたまらなくなった時に行く所」と表現した(随筆集、高見順編「浅草」、昭和30年)。サイデンステッカーいわく、日本の、いわゆる知識階層の生活にくだらなさを覚え、文芸雑誌の全てがつまらなくなったとき、人々は浅草で「命の洗濯」をしたのだ。
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大正12年の関東大震災、昭和20年の東京大空襲で、浅草は2度にわたり廃虚と化した。大正10年改築の神谷バーは、これらを乗り越えて現存している。震災や戦災に耐えた鉄筋コンクリート造の近代商業建築として、平成23年には国の登録有形文化財にもなった。
外観は大正期の建築らしい明るいタイル張りに、正面性を重視した2階の3連アーチ窓などが特徴だ。正漢字を使った「神谷バー」の看板をくぐると、デンキブランが注がれるバーカウンターが、明るい店内の奥に見える。3月初旬、手前の大テーブルには手酌で瓶ビールを楽しむ初老の男性がいた。2つ並べたデンキブランにビールを添える年配男性の姿もあった。
「一人にて酒をのみ居れる憐れなる となりの男なにを思ふらん(神谷のバアにて)」(萩原朔太郎「あさくさ」)
見渡すと、隅のテーブル席には2人で楽しむ若者の姿もある。神谷によると、新型コロナウイルス禍で年配客の足が鈍る一方、若者客が増えているという。「SNS(会員制交流サイト)で、雰囲気のある店や酒の写真を発信しているようです。コロナ後は、若者人気につながる流れができれば」と期待する。
平成16年2月からは、店先でデンキブランのボトル売りも始めた。「1丁目1番地1号」と銘打ったオリジナル焼酎もある。デンキブランの〝宅飲み〟は、伝統と歴史を今の時代になじませる、浅草の流儀にもかなっている。
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現在、神谷の下ではデンキブランの製造は行っていない。かつて電気ブランを造っていた神谷酒造は、神谷の祖父、3代目傳兵衛の代だった昭和35年に、経営不振から合同酒精(現・オエノンホールディングス)と合併。個人経営の形で独立していた神谷バーを神谷が継いだ。
3代目と働いていた職員から神谷が聞いた話では、戦後の物資不足や貧困の中でも、3代目は良い酒造りにこだわった。安い粗悪品を出すことはせず、それが経営不振につながったという。酒造りをやめ、神谷の父は傳兵衛の名を襲名しなかった。神谷も同様で、「酒造りをしていない自分たちが、その名を襲名するのはおこがましい」という。
それでも100年以上続くデンキブランと神谷バーの歴史。神谷は後継についても考える。店にはデンキブランを愛し、半世紀近く通う常連客も少なくない。
「こうやって愛し続けてくれる人がいる限り、続けます。神谷の歴史で、5番目のたすきをつなぐのが私の使命です」
明治から令和へ-。歴史を背負う浅草の店と街、そして人の重みが、琥珀色のグラスに映っている。
=敬称略(永井大輔)