日本語メモ

知らずに使っている仏教由来の言葉

校閲作業に欠かせない産経ハンドブック
校閲作業に欠かせない産経ハンドブック

昨年のNHK大河ドラマ「青天を衝(つ)け」を欠かさず視聴していた私は、徳川慶喜と家臣の平岡円四郎の会話の中の「尽未来際(じんみらいさい)」という言葉に興味をそそられました。調べてみると仏教に関する語で、「未来の果てに至るまで」「未来永劫(えいごう)」「永遠の未来」の意でした。以来お気に入りの言葉となりましたが、調べる過程で、日常生活の中でそうとは知らずに使っている仏教由来の言葉が多くあることに気付きました。

例えば「挨拶」は禅宗の修行僧同士が悟りの程度を測り合う問答を行う「一挨一拶(いちあいいっさつ)」からきたものです。

「億劫(おっくう)」はサンスクリット語で最長の時間の単位である「劫」が「億」あることから、「あまりにも時間がかかるため」に「やる気になれない」の意に転じた語です。

「玄関」は「玄妙な道に入る関門」からきた語であり、玄は「悟りの境地」の意で、元々は寺院の入り口を玄関と呼んでいました。

「退屈」は、もとは「仏道修行の厳しさに屈し、退いてしまうこと」を意味し、逃げ出した僧侶はもう何もすることがなくなるので、「暇」な時に使われるようになりました。

「旦那」は、サンスクリット語の「ダーナ(お布施)」に由来し、元々は「お布施をする人」の意味だったものが変化しました。

「我慢」は、仏教では「我」に執着し、思い上がる心を表し、自分の意見を変えず、意地を張る姿から、「つらいことに耐える」意になりました。

「有頂天」は、仏教語の「天中の最上にある天」の意だったものが、「絶頂を極める」に転じ、後に「喜びで舞い上がって我を忘れる」さまを「有頂天になる」と言うようになりました。

このように、古来仏教と深い関わりを持った先人たちが育んできた日本語には、仏教思想が基になっているものがあり、元の仏教的意味が薄れ、別の意味で何げなく使われているものが沢山あります。仏教由来の言葉が無意識で使われているなんて、やはり「仏教国」と言われるだけのことはありますね。 (は)

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