モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

(122)独裁者と渡り合うための思索

プーチン大統領の暴挙を受け、世界ではロシア排除の動きが加速している(AP)
プーチン大統領の暴挙を受け、世界ではロシア排除の動きが加速している(AP)

落としどころはフィンランド化?

新型コロナウイルス禍でテレワークが奨励されるようになってからは、外房の海辺の町で隠遁(いんとん)者のように暮らしている。朝は小鳥、夜はキョンの鳴き声を友にし、気が向けば海を眺めに散歩に出る。

こんな暮らしをしている人間が、必要あって東京へ出ると、きまってヒット曲「木綿のハンカチーフ」の青年とは正反対の感慨にとらわれる。「ぼくは、ぼくは、ああ、帰りたい」。他者を出し抜きたい、評価されたい、得をしたい、楽をしたい、といった素晴らしい意欲(けっして皮肉ではない)を持った人々の行動や言葉に触れると、疲れてしまうのだ。自分もかつてはそうだったし、いまもその意欲はどこかにくすぶっているはずだが、もうそのステージから降りたい、生々しい世界から離れて無用な人間として静かに暮らしたい、という気持ちが勝ってきたのだ。

ところが、ロシアのウクライナ侵攻は、くすぶっていた意欲に酸素を供給したようで、自分に何かできるとは思わないが、門外漢であっても何か考えることはできるのではないかと、刻々と変化する情勢を注視するようになった。

宗教戦争によって荒廃し、盗賊が跋扈(ばっこ)する社会を生き抜いたモンテーニュは第2巻第15章「我々の欲望は困難にあうと増加すること」に、「錠前は泥棒を引きよせ、押入り強盗は戸締りなき家に侵入することなし」という古代ローマの哲人、セネカの言葉を引用してこう記している。《防備は攻撃をひきよせ、疑心は害意を起させる》(関根秀雄訳)。

非武装中立論者が喜びそうな言葉であるが、これは一定の真理を含んでいると思う。ウクライナの北大西洋条約機構(NATO)への接近が、ロシアに侵攻の口実を与えたことは間違いない。元役者のゼレンスキー大統領は演技をしてでもプーチン大統領と「ウォロディミル」「ウラジーミル」と呼び合える関係を構築し、かつ「ソ連寄りの中立」を貫いて資本主義と民主主義を維持してきたフィンランドに学ぶべきではなかったか。

いまさらこんなことを言ってもしようがない。喫緊の課題は、落としどころを見つけて停戦に漕(こ)ぎつけることだ。多くの識者が指摘するように、ウクライナのフィンランド化が、核の使用も辞さない第三次世界大戦を引き起こさない、もっとも現実的な落としどころなのか? それはウクライナの人々を犠牲にして安逸を貪ることではないか。

病める社会で自由は繁栄する

この問題について、軍事・外交の専門家とは異なる視点がないものかと、書棚をかき回し、ルーマニア出身の思想家、シオランの『歴史とユートピア』(出口裕弘訳)を引っ張り出した。というのも、ある対談で《ドストエフスキーの全作品は五回か六回読みましたね》と発言し、かつ祖国が第二次大戦後、ソ連の衛星国となってからは、無国籍者としてパリで生き、パリで死んだ彼は、ソ連/ロシアにひとかたならぬ関心を持ち続けていたからだ。このコラムでも何度となく彼の言葉を引用しているが、経歴について簡単に紹介しておこう。

1911年にルーマニアで生まれた彼は、37年にパリへ留学、以後同地に定住し、フランス語で著作を発表、95年に同地で亡くなった。懐疑的、厭世(えんせい)的、冷笑的、虚無的、逆説的な言葉で、生存のむなしさを隠蔽(いんぺい)するために築き上げられた既存の思想や信仰の体系を「幻想」として徹底的に批判した。

生を大切にするモンテーニュとは、対極にあるように思えるが、実のところ、彼はモンテーニュの懐疑主義に大きな影響を受けており、《西洋にはもともと賢者は存在しない。だれが賢者なのか、とすこし考えてみると、思いあたるのはモンテーニュ》と、別の対談で発言しているほどなのだ。

さて、60年にパリのガリマール書店から刊行された『歴史とユートピア』の第1章「社会の二つの典型について」にこうある。

《自由は病める社会でしか繁栄することができません。寛容と無能力とは同義語なのです》

どういうことか。病める社会とは、超越的な価値に支えられた目標(幻想)から引き剝がされ、自信を失った社会ということだろう。自信がなければ、自分の価値観を他者へ押しつけることはできない。そこに自由という価値が浮上し、繁栄する余地が生じるというのだ。さらに、他者をきっぱりと拒絶することもできず、いやいやながらも受け入れざるを得なくなる。すなわち寛容である。

対して自由が制限された社会について《時間は、長い間には、鎖にしばられた国民に幸運を恵む。すなわちそうした国民は、力と幻想とを蓄積しつつ、未来へ向って、希望の方へ向って生きるのである》と断言し、その直後に《だが、自由の中にあるとき、放漫と無事平穏と軟弱さとからできあがった、自由を具現した体制の中にあるとき、私たちは何を希望することがあろう?》と問いかける。

自由に耽溺(たんでき)する西側先進国の衰弱と、専制主義国家であるロシアと中国の台頭がここに予言されているように思える。

シオランの研究者、大谷崇さんは『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』のなかで、シオランのいう「生き生きした民族」は、決断力と情熱があり、暴力の行使に躊躇(ちゅうちょ)することも、自分たちの犯した罪業を意識することもなく、「至福」で「無責任」で「陶酔」のなかに生きていると解説する。確かに、プーチン大統領と習近平国家主席の目を見ると、「陶酔した残虐なリアリスト」という言葉が浮かぶ。

こんな独裁者とどう渡り合えばいいのか。

『歴史とユートピア』第4章「怨恨(えんこん)のオデュッセイア」でシオランはこんな啖呵(たんか)を切っている。

《(何ごとも選択できぬ人間が)ひとつの役割を演じたいというのなら、敵を作りだすがいい、敵をしっかりと掴(つか)んで、眠っていたおのれの残忍性をゆり起し、軽率にも聞き流した侮辱の思い出をいきいきとめざますがいい! ただの一歩でも前進しようというのなら、最小限の下劣さが要る》

「最小限の下劣さ」という言葉が心に響く。なぜなら、自由に耽溺して衰弱する国でお上品ぶって生きている自分を自覚しているからだ。ただ、最後の著書『告白と呪詛(じゅそ)』(出口裕弘訳)のなかで、《人間は絶滅すべきである》と記した男である。彼の言葉においそれと乗るのは危険すぎる。それでも、突き詰めて考える価値のある言葉だと、私は信じる。

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