隆盛極めた武渓文化 横浜の宝林寺で往時に浸ろう

かつて東輝庵が建っていた跡地に建立された宝林寺の正面。そのころの寺はこの地の南側にあった=横浜市
かつて東輝庵が建っていた跡地に建立された宝林寺の正面。そのころの寺はこの地の南側にあった=横浜市

東海道五十三次の保土ケ谷宿(横浜市保土ケ谷区)が江戸時代の後期、漢詩などの文化や文芸で栄えていた土地柄だったことは、あまり知られていない。宿の本陣跡と丘陵地を挟んでほど近い場所には、臨済宗大本山円覚寺の末寺「宝林寺」(同市南区)が建っており、そこにはかつて「東輝庵」という僧侶の修行道場が築かれていたためだと伝わる。庵を営んだ月船禅慧(げっせんぜんね)という僧侶と雲水とが、村人と交流するうちにそうした風土が育まれた。どんな成り立ちがあったのか。

宝林寺の寺歴などによれば、東輝庵は延享4(1747)年、現在の福島県小野町出身の月船が建立した。当時、寺には住職がおらず、月船は「よい土地がらじゃと足をこの寺に十数年留めた」という。この間に寺とは別の場所を選んで庵を建てたわけだ。

東輝庵の南側に

文化や文芸が盛んで、江戸をはじめ全国の学者、文人、僧侶のみならず、大名との交流もあった。ほどなく、この地の呼び名を使った「武渓文化」なる言葉が生まれ、隆盛を極めた。この庵こそが文化の淵源であり、名主を務めていた服部季璋と、宿の問屋役だった軽部長堅が、手厚く支援したとされる。

宝林寺はもともと、東輝庵の南側に位置していた。明治17(1884)年の一時期、東輝庵の住職が不在となったことで合同施設となり、29(1896)年に本堂などを改築したが、大正12(1923)年に発生した関東大震災の影響で一部が倒壊。その後の修復作業を経て現在に至る。

月船の語録がまとめられた『武渓集』の訳注を出版した円覚寺の横田南嶺管長はその書で、月船の人となりをこう紹介している。

「修行したという跡を隠して、村人の中にとけ込んで、子供たちに文字や文学を教え、村の人たちを知らず知らずのうちに仏法に帰依させていった」

雲水も村人と交流

東輝庵は、月船の「仮住まい」であったことや、「ほとんど外に出ずに専ら修行三昧の生活だった」などとも書いてある。自らを厳しく律し、それでいて人には優しく、英知は偉ぶらずに授ける-。人間像が浮き立ってくる。ちなみに月船は「武渓」という号を名乗っている。

そんな言動が噂を呼び、全国から雲水が東輝庵にやってきたとも解説している。庵に入り切らず、「村の小屋や牛小屋に住んで月船禅師に参禅した」ほどだった。寺歴には、庵のほかに道場をつくったところ、雲水は「常に三、四十名をこえた」とある。

第22世の住職となる中西成道さんは「雲水も村人と交流し、文化や文芸の指導に当たったのではないか」と推測している。

高僧をあまた輩出

東輝庵は、高僧を幾人も輩出した。「円覚寺中興の祖」と評される誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)は、20歳のときに63歳の月船のもとに参じた。その後、荒廃した円覚寺の伽藍(がらん)を復興するなどした功績が評価され、大正天皇から大用国師の諡号(しごう)をたまわった。

「〇△□」の図形だけをしたためた禅画で知られる仙厓義梵(せんがいぎぼん)も弟子の一人。境内には、仙厓の禅画の収集者だった石油元売り会社「出光興産」の創業者、出光佐三が建立を申し出た石碑があり、「仙厓禅師修行跡 東輝庵」の文字が刻まれている。

中西住職は「月船は厳格な人柄だったといわれています。修行もそうした姿勢で弟子と向き合っていたのしょう」と話す。

月船亡き後もすさまじい。ことのほか驚くのは、臨済宗に現在残っている2つの系譜が、東輝庵から発していることだ。現在の臨済宗を確立したと評される白隠慧鶴の教えを継いだ峨山慈棹は、白隠のもとを訪ねる前にすでに月船の高弟であり、たいていの修行は終えていた。「2つの系譜」とは、この峨山のもとで修行した隠山惟琰と卓洲胡僊(たくじゅうこせん)の流れであり、「臨済宗の歴史に名前を残したすばらしい僧侶」(中西住職)なのだ。

東輝庵の遺構は目にできなくても、宝林寺には今でも、月船のお墓や庵の第3世住職だった物先海旭の荼毘(だび)の地などが残っている。歴代住職の手による絵画、書籍なども残され、これらは横浜市の指定文化財だ。「武渓文化」の発信元に足を運んで辺りを散策し、風情に浸るのも乙ではないか。

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