門井慶喜の史々周国

企業風土映す社史の魅力 富士北麓(山梨県富士吉田市など)

山梨県北東部の大菩薩嶺から望む富士山。朝のみずみずしい光を受け、荘厳な姿を浮かび上がらせた=令和元年10月、松本健吾撮影
山梨県北東部の大菩薩嶺から望む富士山。朝のみずみずしい光を受け、荘厳な姿を浮かび上がらせた=令和元年10月、松本健吾撮影

社史が好きである。

もちろん歴史小説を書いているので、仕事の必要ということはあるのだが、本音を言うと、ただ本として好きなのである。なぜなら個人がそうであるように、もしくは個人以上に、法人は個性にあふれている。百社あれば百通りの社史があるのだ。

例を挙げるなら、創業者の力戦奮闘を中心に据える『ワコール三十年のあゆみ』。あえて創業者色をうすめてスマートな現代性を演出する『写真集 慶應義塾150年』。

『吉本興業百五年史』が中途半端な周年の数字を掲げているのは、ひょっとすると、世間の話題になることを何より重んじる社業の性質と関係があるのかもしれないなどと想像しながら買い集めて、さあ、気がつけば本棚いくつぶん持っているか。異彩を放つのは富士急行だ。昭和五十二年(一九七七)刊行のそれは、本来ならば『富士急行五十年史』とでもなるところ、あえて『富士山麓史』。何やら学術書めいている。

実際、その内容はかなり研究的である。A4判クロス装、約九百ページのこの大冊はまず前半と後半にわかれ、後半が富士急行の歴史の叙述に割かれるのだが(つまり一般的な社史に近い)、前半は「富士山麓のあゆみ」と題し、大学教授等の執筆をあおいでその開発史を述べる。

その記述は、何とまあ縄文時代から始まるのだ。ほかのたいていの鉄道会社のそれが明治以後からはじまる(当たり前だ)ことを考えると、この射程のながさは貴重というか、不敵というか。ためしにそこに収録されている富士山北麓、都留(つる)郡についての論文を読むと、ずいぶん貧しい土地だったらしい。

縄文、弥生時代はもちろんのこと、戦国時代に入ってさえ米よりも雑穀のほうが穫れ高が多く、ひとつ台風や大雪が来れば飢え死にする者が相次いだ。

標高の高い、文字どおりの「寒村」であることも一因なのだろう。こんなふうに農業生産力がなく、しかし富士山という唯一無二の風景があることは、この土地を、必然的に観光地にした。

富士山そのものを売るしかなかったのである。そのさい先導役となったのは御師(おし)たちだった。御師とは一種の修験者だが、その社会的機能はむしろ宿泊業に近いだろうか。

夏の登山期には宿坊をいとなんで登山者を滞在させ、食事を提供したばかりか、それ以外の季節にはこっちから諸国へ出向いてお札を売って歩いたというから外まわりの営業までやっている。彼らの努力が花ひらいたのは徳川時代だった。江戸の市民のあいだで富士登拝が流行し、毎年たくさんの団体が来たのである。

それらの団体は頂上まで登るわけではなく、標高約一五〇〇メートルの御坂(みさか)峠を越えたところで山容にのぞんだというから、きっとその遙拝所まで完備していたのだろう。

宗教行為とパックツアーの一体化。富士山そのものの大衆化。この風習はしかし近代に入ると一変した。御師を主役たらしめていた土俗的な宗教臭はおおむねさっぱり洗い流され、かわってスイスの香りがしはじめたのだ。

アルプスの香りともいえようか。標高の高さ。夏のすずしさ。湖と山の雄大な景観。それによって観光客を招致する。

となれば、そこには当然ユングフラウ鉄道のような登山鉄道も必要というわけで、大正十五年(一九二六)、富士山麓電気鉄道株式会社が創立され、三年後に大月-富士吉田間の電車の運行がはじまった。ユングフラウほどの急勾配ではない。大月を起点にしたのはもちろん国鉄(現JR)中央本線との接続のためだった。

この会社が戦後、富士急行と改称したのである。改称前から通算して五十周年の節目の年に刊行した社史が『富士山麓史』と大きな題を掲げて研究書のつくりに擬したのも、おそらくは、自分たちこそがこの魅力ある土地の開発の象徴であり実質であり先導役であるという強い自負の反映なのだろう。まことに社史とは企業風土のかがみである。法人はしばしば個人以上に個性的なのである。

本連載は、じつは今回が五十六回目(東京本社版は三十八回目)である。これで日本のすべての都道府県に一度は足を運んだことになるが(外国にも行きましたね)、まだまだ見たいもの、行きたい場所はうんとある。ひきつづき愛読いただけたらうれしい。


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