突入前、実家に電話の若い巡査に涙 あさま山荘取材の元カメラマン

あさま山荘事件の資料に目を通す小野義雄さん=2月22日(大渡美咲撮影)
あさま山荘事件の資料に目を通す小野義雄さん=2月22日(大渡美咲撮影)

昭和47年2月の過激派組織「連合赤軍」によるあさま山荘事件は、現場の状況を伝える記者やカメラマンにとっても過酷な現場だった。いつ事態が動くか分からず、自身も銃弾に襲われるかもしれないという緊張感の中、10日間にわたる雪深い山の中で取材は続いた。当時、カメラマンとして現場で取材にあたった元産経新聞記者の小野義雄さん(78)もその一人だ。

まるで戦地のよう

千葉県富津市で暴れる野猿の撮影をしていたところ、上司から無線機で連絡があったのは昭和47年2月19日午後のことだった。すぐに東京都内にある本社に戻り、電車で長野県軽井沢町に向かった。

当時は携帯電話やパソコンはなく、取材本部の民宿とは別に現場に近い取材拠点としてあさま山荘近くの別荘の軒下を借りた。カメラマンは24時間3交代制で、小野元記者は防弾チョッキを着て撮影に臨んだ。軽井沢は連続氷点下。テントで簡易の屋根を作り、一斗缶で火をたいて寒さをしのいだ。

あさま山荘事件を取材する報道陣のテント村=昭和47年2月27日
あさま山荘事件を取材する報道陣のテント村=昭和47年2月27日

「みなウイスキーのポケット瓶を飲んで体を温めていた。軽井沢からポケット瓶が消えたといわれた」と振り返る。

当時機動隊員が食べていたことで爆発的ヒットとなった「カップヌードル」は報道陣にとっても心強い「味方」だった。ただ、水がなく、雪を溶かして温めたお湯で作った。

いよいよ突入の28日、機動隊員の突入とは逆の建物の側でカメラを構え、そのときを待った。約7時間にわたる攻防の末、警視庁第9機動隊員が窓から旗を振った瞬間をカメラに収めた。

あさま山荘に突入後、制圧を知らせる旗を振る機動隊員=昭和47年2月28日(小野義雄撮影)
あさま山荘に突入後、制圧を知らせる旗を振る機動隊員=昭和47年2月28日(小野義雄撮影)

「周りにいたカメラマンたちからワッと歓声が上がった。銃撃がすぐそばで聞こえてきてまるで戦地にいるようだった」

警察官の魂と誇り

その後、カメラマンから記者へ転身し警視庁担当になった。警察関係者から聞いた突入当時のエピソードが今も胸に残る。

2月28日の突入前日。9機の1つの隊では、突入する7人を決めるため、隊員が集められていた。殉職する可能性もある危険な任務だが、中隊長が突入の希望者を尋ねたところ、53人の隊員全員が手を挙げたという。最終的に決まった中には24歳の男性巡査もいた。男性巡査は中隊長の指示を受け、夜に実家に電話をかけた。家族の後押しを受けて勇気をもらったのだという。

小野さんは「若い警察官が命をかけて突入するというのはすごいことだと思った。あさま山荘事件では警察官の魂と誇りを感じた」と涙をにじませた。

「あさま山荘事件は35年のカメラマン・記者人生の中で一番思い出に残っている。寒さとの戦いで10日間も続いたのは非常にきつかった。殉職した警察官の方々のご冥福を改めてお祈りしたい」と話した。(大渡美咲)

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