昭和55年オフ、寂しい“別れ”があった。背番号「40」。愛称「マイク」。ひげのラインバックが解雇されたのである。退団会見もなし。すでに米国へ帰国していた本人へ球団から「来季、契約はしない」と通告しただけ。
英語が話せない悲しさか、担当1年目の筆者にラインバックの思い出は少なかった。デーゲームになると、いつも目の下を黒く塗っていた。1度だけ「Why」と聞いた。
「ボクの顔はほりが深くて金髪だろう。太陽の光が反射してまぶしいんだ」
当時はまだサングラスをかけて試合をするなど、とんでもない時代だった。
51年にタイガース入団。1年目から打率・300、本塁打22本、81打点と活躍した。ところが、来日当初の評判は最悪だったという。当時のことをOB川藤幸三はこうふり返った。
「打撃練習を見て“すぐクビになるやろな”と思たな。なにせ打球が前に飛ばんのや。すべてケージの上に当たりよる。首脳陣も笑ろとったよ」
そんな彼がなぜ? 当時、打撃コーチだった山内一弘が一からラインバックの打撃フォームを改造。“前さばきの打撃”を伝授したのだ。
「ええ人に出会ったというこっちゃ。マイクも必死に習っとったし、真面目な男やった。ビックリしたんは、ロッカールームでブリーデンのスパイクをほんまに磨いとったことやな」
来日外国人選手の“上下関係”は、年齢や滞在年数は関係ない。メジャーでの活躍の大きい選手が「上」に立つ。オリオールズで12試合しかメジャー経験のないラインバックにとって、カブス-エクスポズで活躍したブリーデンはまさに「赤鬼」のような存在だった。
阪神を解雇されたマイクが12月10日、米テキサス州ダラスで開催されているウインター・ミーティングにやってきた。目的は就活。会議にオブザーバーとして参加している日本の球団関係者へ「ボクを使ってください」と直接交渉。だが、いい返事はもらえなかった。
「日本の新聞記者のみなさん、わたしは苦境に立っている。去年、離婚して家も手放し、いま、サンディエゴのアパートで独り暮らし。とにかくもう一度、日本で野球がやりたい。この気持ちを書いてください」
記事は載った。だが、マイクに“朗報”はいかなかった。その後、サラリーマンになったという。そして平成元年5月20日、カリフォルニア州パームデザートで、車で崖から転落死した-という“悲報”が日本に届いた。(敬称略)