明治時代に活躍した水彩画家、丸山晩霞(ばんか)(1867~1942年)の作品を中心とした企画展が長野県立歴史館(千曲市)で開かれている。故郷の東御市に丸山晩霞記念館もあるが、あえて歴史館では「私たちは何を失い何を得てきているのかを考えてもらいたい」(笹本正治特別館長)と企画。百年前の日本人に郷愁の念を抱かせた信州の風景画は、環境問題がクローズアップされる現代においても色あせず、心を揺さぶってくる。
郷愁の画家
晩霞は、同時代に活躍した三宅克己、大下藤次郎とともに「水彩の三明星」と呼ばれる。親の反対もあって絵画を東京で学び始めたのは21歳頃。帰郷すると、養蚕と蚕種製造を営む家業を手伝いながら信州や上州の自然を写生した。まだ観光地化する前に上高地などでスケッチを行い、山岳風景画家の先駆者でもあった。
31歳頃に東京の展覧会に作品を出品し、ようやく世間に知られると、自作を持って米国に渡航。各地で画展を開いて資金を集め、欧州への留学を果たした。
「透明水彩」の本場、英国で腕を磨くと、郷里の祢津村(現・東御市)に戻って代表作を次々に制作。まだカラー写真はなく、リトグラフ(石版印刷)によって雑誌の口絵や絵はがきとなり、信州の田園風景を発信した。脱亜入欧で近代化に憧れた時代にありながら、ありふれた信州の田園風景を描いた作品は全国に広まった。
日本の良さ見直す
学芸員の林誠さんによると「明治20~30年代、日露戦争に勝利して日本は国際社会に仲間入りした。『日本風景論』も出版され、ナショナリズムが盛んにいわれるようになった」。何気ない田園の風景が都会生活者らに日本の良さや郷愁の念を覚えさせ、東京の著名な画家もこぞって信州に絵を描きに来たという。