江戸幕府が鎖国を始めたのは、天草諸島などのキリシタンの影響が大きかった。寛永14(1637)年、島原(長崎県)と天草諸島で、日本史上最大規模の一揆、島原・天草一揆が起こった。蜂起した農民の多くは、弾圧や重税などに苦しむキリシタンだった。天草下島(天草市)の本渡(ほんど)地区にある「天草キリシタン館」では、天草四郎が長崎県の原城に籠城していたときに使われた「天草四郎陣中旗」が展示されている。血痕が残り、一揆の様子を生々しく伝える国指定重要文化財だ。
幕府は一揆を「キリシタンの反乱」と位置づけ、弾圧を一層強めた。宣教師を乗せた南蛮船の来航も禁じて、鎖国を推し進めていった。だが、そうした中でもキリシタンは潜伏しながら、200年以上にわたってひそかに信仰を続けた。 平成30年、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の12の構成資産の一つとして、「天草の崎津集落」が世界文化遺産に登録された。構成資産は、仏教などの日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続けた「潜伏キリシタン」の伝統の証しとなる遺産群だ。
天草下島南部の崎津集落は、穏やかな海に面した小さな集落で、昭和9年に再建された崎津教会がひときわ目を引く。教会は吉田庄屋役宅跡に建ち、聖像画を踏ませる「絵踏(えぶみ)」が行われた場所にあえて祭壇が置かれたという。
崎津は漁師が多く、アワビなどの貝殻の内側に浮かび上がるもようを聖母マリアに見立てて祈るなど、身近なものを信心具としていたそうだ。教会近くの崎津諏訪神社は、文化2(1805)年に住民の多くが潜伏キリシタンであることが発覚した「天草崩れ」の取り調べの舞台でもある。
当時の役人は、神社の境内に箱を置き、潜伏キリシタンたちに信心具を捨てるよう指示した。取り調べの口述書には、潜伏キリシタンも神社を参拝し、「あんめんりゆす(アーメンデウス)」と手を合わせていたと記録されている。
商店で話を聞くと、「ここは神道や仏教を信仰する人たちと潜伏キリシタンが一緒に仲良く暮らしていたと伝わる」といい、それが世界文化遺産に登録された大きな理由だと教えてくれた。
崎津諏訪神社の奥から長い階段を上ると、「チャペルの鐘展望公園」に着く。深い山と穏やかな海に囲まれた崎津集落を一望できる。凪(なぎ)の海は信仰の枠を超えて共生してきた人々の心に、空に伸びる教会の尖塔(せんとう)は潜伏キリシタンの強くまっすぐな思いに重なってみえた。
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■アクセス
熊本空港や福岡空港から飛行機が運航。宇土半島の三角から車でも。九州本土と島々を結ぶ船のルートもある。
■プロフィル
小林希(こばやし・のぞみ) 昭和57年生まれ、東京都出身。元編集者。出版社を退社し、世界放浪の旅へ。帰国後に『恋する旅女、世界をゆく―29歳、会社を辞めて旅に出た』(幻冬舎文庫)で作家に転身。主に旅、島、猫をテーマにしている。これまで世界60カ国、日本の離島は120島を巡った。