聖の青春の味、食堂「更科」閉店 地域に将棋ファンに愛され50年

2月22日を最後に閉店する「更科」。店主の倉田政男さん(中央)が作る定食などが将棋ファンや地域の人に愛されてきた=1月21日、大阪市福島区(恵守乾撮影)
2月22日を最後に閉店する「更科」。店主の倉田政男さん(中央)が作る定食などが将棋ファンや地域の人に愛されてきた=1月21日、大阪市福島区(恵守乾撮影)

大阪市福島区のJR福島駅高架下にある飲食店街で、半世紀にわたり地域の人に愛されてきた食堂「更科(さらしな)」が今月22日を最後に店をたたむ。「怪童」と呼ばれた早世の天才棋士、村山聖(さとし)さんが生前足しげく通ったことで知られ、多くの将棋ファンが訪れる〝聖地〟だが、鉄道新線「なにわ筋線」の建設工事に伴い、立ち退くことになった。地元住民から観光客まで幅広く愛されてきた名物店の閉店を惜しむ声が上がる。

地元住民に愛され

ガード下の店内はテーブル席が7卓ほど。時折、頭上で「ゴトンゴトン…」と電車の走行音が低く響く。客の求めに応じ、年々増えていったメニューは定食やおでん、丼ものなど多種多様。「品数を数えたことがない」と笑うのは店主、倉田政男さん(81)の長女、貴子さん(52)。会計を済ませた客に「場所を変えて(店を)やらないの?」と尋ねられ、少し寂しげにほほ笑んだ。

福井県出身の倉田さんは、中学卒業後の16歳から大阪市中央卸売市場内のそば店で修業。昭和46年、30歳のときに親戚から店を引き継ぐ形で独立した。毎朝開店前に市場へ出向いて仕入れる新鮮な食材で作る定食が、会社員や地元住民らに愛され、店は大盛況。妻の紀美子さん(74)は、当時2歳だった貴子さんを店先で遊ばせ、生まれたばかりの次女、恵美さん(49)を背負って店に立った。

「更科」の常連客だった将棋棋士の村山聖さん。亡くなる少し前にも店に顔を出していた(森信雄七段提供)
「更科」の常連客だった将棋棋士の村山聖さん。亡くなる少し前にも店に顔を出していた(森信雄七段提供)

「昔なじみの坊や」

56年に店から徒歩3分ほどのところに関西将棋会館が建つと、会館への出前の注文を受けたり、棋士や棋士の卵らが来店したりするようになった。当時中学生だった村山さんもその一人だった。

村山さんは幼少から腎ネフローゼを患い、多くの時間を病床で過ごした。中学2年生で棋士の養成機関「奨励会」に入り、頭角を現すと、やがて「東の羽生(はぶ)(善治)、西の村山」と並び称されるまでに。だが平成10年、進行性ぼうこうがんのため29歳で亡くなった。

そんな村山さんが家族の住む広島を離れ、大阪で身を寄せたのが、更科からほど近い、師匠の森信雄七段(69)が暮らすアパートだった。2人は毎日のように店へ顔を出した。食後は決まって森七段が「はよう薬飲みや」と促し、村山さんが粉薬を飲んでいた。紀美子さんは「かいがいしく世話を焼く親子だと思い込んでいた」。

村山さんの活躍を知らなかった倉田さんは「『いつか将棋を教えてね』なんて軽く言っちゃった。亡くなってからすごい先生だったって知ったんや」と苦笑。倉田さん一家にとって村山さんはずっと「店によく来てくれる昔なじみの坊や」だった。

書籍・映画にも登場

「更科は親戚の家みたいな場所」と森七段は言う。村山さんが焼き魚定食を骨に身が全く残らないほど美しく食べていたこと。一口一口かみしめるようにゆっくり箸を運ぶ姿。店に行けば思い出の中の村山さんに触れられる気がした。「病気で薄味のものしか食べられなかった彼にとって、ここでの食事はごちそうだったんでしょう」。閉店の知らせに「将棋ファンが来るからと長く店を開けていただき、ありがたかった。寂しくなるね」とつぶやいた。

村山さんの生涯をつづった作家、大崎善生さんの著書「聖の青春」で店での様子が描かれ、その後映画化もされると店がロケ地に。将棋ファンが続々と訪れた。大崎さんは「村山君にとって大阪での食生活を支えた〝育ての親〟みたいな存在だったのでは。コロナがなければもう一度行きたかった。長い間お疲れさまでした」とねぎらった。

令和5年度には関西将棋会館が大阪府高槻市に移転する予定で、周辺の景色は一変する。紀美子さんは「本や映画になって、ロケ地にもなって…。こんな人気になるとは夢にも思わなかった」。倉田さんは「将棋とともに歩んできた店やったね。やりきりました」とにこやかに語った。(木ノ下めぐみ)

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