本郷和人の日本史ナナメ読み

歴史叙述とは何か㊤ 人物の「特質」に焦点

中世の姿をとどめた名越切通 =神奈川県逗子市(渡辺照明撮影)
中世の姿をとどめた名越切通 =神奈川県逗子市(渡辺照明撮影)

歴史を叙述する。たとえば目下懸案の梶原景時とはどういう人物だったかを書く、だとか、13人の合議制とは何かを解説する、とか。このときにもっとも単純なのは、ともかく時間の経過に沿って、事象を拾い集めていくこと、ですね。いまはウィキペディアなどがありますので、これをベースにして、ところどころに感想を混ぜたり、ある部分を強調したりすれば、原稿は書けます。あるいはユーチューブ動画の脚本もできあがる。実際に、ネットではそういう文章や動画を多く見ることができます。

でもぼくは、それはやりたくありません。書くからには「とがったもの」にしたい。当然それは「ぼくの考え」ですので、面白がってくださる読者もいる反面、「いや違うんじゃないか」と反対される方もでてくる。でも、それでいいのだと思います。議論を喚起できるような解釈を提起したい。それによって、みなさんが歴史を楽しく考えていただければ、本当にうれしい。

ではどう工夫をすれば、本郷はこう言うけれど「オレならこう考える」、読者のみなさんの考察が抽出しやすくなるか。それは論点を整理すること、これに尽きるでしょう。そしてよく整理できている状態というのは、論点が簡潔に示されている様子を指す。ぜい肉をそぎ落として簡潔なかたちに成形するには、本質を見極める作業が必要になります。

先ほど梶原景時を書く、というテーマを示したので、これを例にしてみましょう。彼は結局、どういう人物だったか簡潔に述べよ。この問いに答えられないようでは、景時を語る芯ができません。そう問われて「ああもあろう、こうもあろう」ではダメだと思います。そりゃあ、人間は複雑で矛盾を抱えた存在なのですから、ああであったり、こうであったりするのは当たり前。でも800年の時間が経過した「いま」の時点から眺めて、彼の特質を探り当てる。それをするのが研究者の役目ではないでしょうか。ちなみに彼は、室町時代以降(つまり『義経記』が読まれるようになって)、「告げ口屋」の酷評を得ました。これも十分、彼の本質A説になります。ぼくはこれを否定し、景時は「頼朝、頼家。つまり源氏将軍家にもっとも忠実な郎党」とみています。B説ですね。

景時については後述するとして、それとも大きく関わることで、少し大きな問題について今回は整理を試みましょう。武家の政権は700年近く続いたわけですが、それが誕生するときにはどういうパターンがあり得たか。もちろん、鎌倉幕府が成立したときには、天皇と貴族が担い手となる朝廷の統治が先にあった。武士はそれとどのような関係をもちながら、幕府という存在を社会に定着させていったのか。そこを整理して論じてみたい。すると以下の3つが考えられます。

パターン❶。朝廷内で貴族として立身し、一族の者も数多く引き立てる。それによって朝廷内で確固たる力を獲得し、政権の樹立に結びつけていく。

パターン❷。伝統ある朝廷の支配力は強固であるから、朝廷からは距離を取る。ただし、新興の組織は既存の権力から認められることによって安定するとの認識のもとに、朝廷との連絡・交渉を重視する。

パターン❸。朝廷から距離を取ることは❷と同じ。ただし、先行する朝廷に関わりなく、自己の強権、すなわち武力をもって支配力を構築する。

まず❶。郵政民営化を目玉の政策として政権の座に挑んだ小泉純一郎氏は、「自民党をぶっこわす」と宣言して多くの支持を集めました。新自由クラブや新党さきがけを結成した河野洋平氏や武村正義氏のように自民党を離れて保守政治の改革を訴えるのではなく、自民党に居ながらにして自民党の改革を図る、という方法ですね。

これは、まさに平清盛が模索した道筋だったでしょう。清盛は保元の乱で武士の力を貴族に知らしめ、平治の乱で一流貴族の仲間に入り、その後、太政大臣にまで累進しました。全国の武士をまとめあげ、平氏一門を要職に引き上げ、ついには治承3(1179)年のクーデターにより朝廷の実権を掌握したのです。

次に❷。これは源頼朝です。頼朝は平家が権力の座に上りつめながら、政権運営に四苦八苦しているさま(以仁王の反乱はクーデターのわずか半年後に起きています)を観察していました。朝廷の近くにいてはその影響から逃れられない。そう考えたのでしょう、彼は物理的距離を取って、当時としては田舎と呼んで差し支えない鎌倉に本拠を置きます。けれども朝廷を尊重する姿勢は崩さず(腹の内は分かりませんが)、京都との交渉を慎重に行って、朝廷の認可を引き出しながら武家の政権のソフトランディングを試みたのです。

それから❸。このやり方の代表は、上総広常です。彼は2万騎を率いて頼朝の味方にはせ参じたと『吾妻鏡』が描写する有力者です。2万騎はさすがに誇張されすぎていますが、随一の規模を有する御家人であったことは認めてよいでしょう。その彼は頼朝に「なぜ頼朝さまは京都のことばかり気になさるのか。われわれは自分たちの流儀で、関東を治めればよいではないか」と常々述べていたといいます。

この3つを準備したときに、鎌倉幕府のありようはどう分析できるのか。それは次週。

■鎌倉開府と名越切通(なごえきりどおし)

鎌倉という土地は、ときに「鎌倉城」といわれる要害だった。南は海。あと三方は丘陵に囲まれ、攻めるのに難しかったのである。丘陵部分にはこのような切通が設けられ、人や物資が通れるようにしてあった。といっても道幅は狭く、やはり防御重視、という特徴が見て取れる。いくつかあるうち特に重要だったのが、鎌倉の西の出入り口である極楽寺の切通と、東の出入り口である、この名越の切通。この近くには北条時政の邸宅である「名越館」もあった。

【プロフィル】本郷和人

ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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