石原慎太郎氏が亡くなった。一つの時代が終わったという感慨を、多くの人が抱いたのではなかろうか。
彼は、若き日に「太陽の季節」を書き芥川賞をとった作家としての顔、本紙に連載した「日本よ」のように鋭く時代を切り取った評論家としての顔、それに衆参国会議員、都知事を長きにわたって務めた政治家という3つの「顔」を持っていた。そのいずれもが卓越した「顔」であった。
宰相の座を目指した「国会議員・慎太郎」は、「数は力」という派閥政治の前に挫折し、志半ばで永田町を去ったが、東京都の知事として遺(のこ)した足跡は、日本政治に今もなお多大の影響を与え続けている。
ディーゼル車に対する厳しい排ガス規制を国に先駆けて実施したほか、平成24年には、都による「尖閣諸島購入計画」を打ち出した。都知事の行動に驚いた当時の民主党政権は、「尖閣諸島国有化」に踏み切らざるを得なかった。以降、日中関係はより険悪化したが、尖閣問題の重要性と強大な軍事力を背景に現状を変更しようとする中国の実態を国民に知らしめた意義は大きい。
都知事として米軍横田基地の返還を求め続け、終戦後一貫して米軍が独占してきた横田空域の航空交通管制圏を一部とはいえ、返還にこぎつけたのも石原氏の功績である。
都知事として大きな実績を遺した彼だが、最も大きな心残りはライフワークともいえる憲法改正を実現できなかったことだろう。
政界を引退した平成26年の記者会見では、「憲法の一字も変わらなかった」と悔しがった。今国会では、長らく停滞していた衆参の憲法審査会が動き出そうとしているが、野党の一部はいまなお改正論議にまともに向き合おうとしていない。
10年前、本紙「日本よ」で、石原氏は「日本人はなぜ肝心なこと、基本的なことについて考えようとしなくなったのだろうか」と嘆き、占領下に押しつけられた現憲法を維持し続けていれば、「我々自身を破滅の隷属に導きかねぬ」と強く警鐘を鳴らした。同時に「(憲法改正を)国民自身が我がこととして考え、政治家に強いるべきなのだ」と訴えた。
国民も政治家も彼の遺志をしっかりと受けとめるべきだろう。