作家、元東京都知事で元衆院議員の石原慎太郎(いしはら・しんたろう)氏が1日、死去した。89歳だった。神戸市出身。
昭和7年生まれ。一橋大在学中に発表した小説「太陽の季節」で31年に当時史上最年少の芥川賞を受賞。若者に影響を与え「太陽族」「慎太郎刈り」が流行した。同小説は後に映画化され、弟の石原裕次郎氏がデビューした。
43年、参院選全国区に自民党公認で出馬し、史上最多の約300万票を獲得しトップ当選した。1期目途中の47年に衆院に転身し、環境庁長官や運輸相などを歴任した。
48年に中川一郎氏らと「青嵐(せいらん)会」を結成し、58年には中川氏自殺を受けて派閥を率いた。平成元年、海部俊樹氏に対抗して党総裁選に出馬した。衆院8期目の7年、国会議員在職25年表彰を受けた衆院本会議で「全ての政党、ほとんどの政治家は最も利己的で卑しい保身の目的のためにしか働いていない」と永田町を厳しく批判し、議員辞職した。
昭和50年に東京都知事選に初めて出馬するが、現職に敗退。平成11年に都知事選に再挑戦し、初当選した。知事時代は築地市場の江東区豊洲への移転や、都が出資した「新銀行東京」開業、東京マラソン開催などを実現させた。米軍横田基地の一部空域返還や羽田空港の国際化など都政の枠を超えた施策も進めた。
都知事として4期目半ばの24年10月、自主憲法制定を実現するため「命あるうちに最後のご奉公をしたい」として知事を辞職し、国政再挑戦を表明。新党「太陽の党」を結成した後、日本維新の会代表に就任し、同年12月の衆院選で国政復帰した。
しかし、在職中に脳梗塞(こうそく)を患い、次世代の党最高顧問として臨んだ26年12月の衆院選で比例代表東京ブロックの最下位に名簿登載され落選。「晴れ晴れとした気持ちで政界を去れる」と引退を表明した。
「石原節」といわれる歯に衣(きぬ)着せぬ発言は物議を醸すこともあったが、その行動力から国政を動かすことも少なくなかった。知事時代は、首都圏ディーゼル車の排ガス規制をめぐって国の対応を「怠慢」と批判し、15年に国に先駆けて規制を開始。24年4月には尖閣諸島(沖縄県石垣市)の購入を表明し、国有化のきっかけをつくった。
政治活動の傍ら、作家や評論の活動も続け「狂った果実」や「化石の森」、共著の「『NO』と言える日本」などを出版。議員時代は田中角栄元首相を金権政治と批判したにもかかわらず、引退後に田中元首相を評価した「天才」も大きな話題を集めた。
本紙「正論」メンバーで、第15回正論大賞を受賞。本紙には11年から29年5月までコラム「日本よ」も連載した。
長男の伸晃氏は自民党元幹事長で、三男の宏高氏は同党衆院議員。次男はタレントで俳優の良純氏、四男は画家の延啓(のぶひろ)氏。