「自主憲法制定」追求した政治家人生 石原氏死去

日本外国特派員協会で会見する石原慎太郎氏=2016年5月19日午後、東京・有楽町
日本外国特派員協会で会見する石原慎太郎氏=2016年5月19日午後、東京・有楽町

石原慎太郎氏の政治家人生は憲法を抜きにして語ることができない。「日本は国家としての明確な意思表示をできない去勢された宦官(かんがん)のような国家に成り果てている」。平成7年、議員在職25年の永年表彰でこう嘆いて辞職しながら、東京都知事を経て、80歳で24年に国政に電撃復帰。その理由については周囲に「自主憲法制定を実現するためだ」と説明していた。

政治家人生の最終盤、日本維新の会で行動を共にした橋下徹元大阪市長とたもとを分かった背景もまた「自主憲法制定」への信念だった。

「考え方が違うんだから、自分の節を折ってまで数を増やしても、しようがない」

政界引退直前の26年夏の産経新聞のインタビューで、石原氏はこう語っていた。リベラル色の強い「結いの党」と合流したい橋下氏の説得を諦め、「次世代の党」結党を打ち出した時期と重なる。自民党と足並みをそろえて改憲を実現させる狙いがあったが、維新の分党で計算は狂った。

「才能があるし、あれほど演説のうまい人はいない」と最後まで高く評価していた橋下氏については、「(結いの党と)くっつくという。分からないなあ」と複雑な心情を吐露。振られても嫌いになれない-。そのとき見せた少年のような表情が脳裏に浮かぶ。

振り返れば、自ら嵐を呼ぶような、波乱に満ちた人生だった。昭和43年の参院選全国区でのトップ当選、日中国交正常化・台湾断交に反発した自民党若手による血判状を伴った48年の「青嵐(せいらん)会」結成、50年の都知事選出馬と落選、突然の議員辞職、都知事選への再挑戦、尖閣諸島(沖縄県石垣市)の東京都購入表明…。周囲をあっと驚かせる言動ばかりが目立つが、背骨として貫かれていたのは「自主憲法制定」だった。

石原氏が好んで使ったこの表現は、「憲法改正」よりも抜本的かつ能動的なニュアンスがある。そこからは、現実的な感覚として骨身に刻み込まれた敗戦国の悲哀が透ける。

げたを履いて東京裁判を傍聴した青年期、進駐軍の憲兵に「ガタガタうるさいから脱げ、小僧!」と怒鳴られた。占領下に米国主導で制定された最高法規への違和感は想像に難くない。「日本の憲法は日本人の手でつくるべきだ」。この問題意識は今や国民の多くが共有するまでに至る。

常々、口にしていたのは前文への不満だ。

「『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…』は、正しくは『公正と信義を』で、『全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ…』は、『欠乏を免かれ』だ。助詞の間違いは日本語の文体を乱し、みにくい印象しか与えないんでね。国家の基本法を正しい日本語に直すことが自主、自立です」

「暴走老人」を自称するなど豪放磊落(らいらく)なイメージが強いが、言葉を大切にする作家らしい着眼点を持った政治家でもあった。(内藤慎二)

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