「楽浪海中(らくろうかいちゅう)に倭人(わじん)あり。分かれて百余国となる。歳時をもって来り献見す」。中国の歴史書「漢書地理志(かんじょちりし)」は、紀元前1世紀ごろの倭国について、百あまりの国があり、毎年、中国に朝貢したと記す。
「2千年以上前の弥生時代、北部九州には国家がすでに存在した」。纒向(まきむく)学研究センターの寺沢薫所長は明言する。福岡を中心に、漢書地理志の時期をさらにさかのぼる弥生時代前期末(紀元前3世紀末)には、中国の青銅鏡や銅剣などを副葬した墓が出現、王をトップにした国家があったとみる。
北部九州になぜいち早く国家が成立したのか。寺沢さんは、集団間の戦争が突出して多かったことを挙げる。農地に適した土地が少なく、稲作の広がりとともに土地や水をめぐる争いが起きやすかった。大陸から武器や技術が伝わったことも、戦争を加速させた。
「争いに勝つには強いリーダーが必要で、漠然とした階層ができた。さらに集団間の戦争を通じて支配、被支配の関係が生まれた。これが初期の国家の形。戦争こそが、国家を造り出す原動力になった」と話す。北部九州の遺跡では、矢じりや剣が突き刺さった人骨、首のない骨などが出土。戦争が頻繁に起こったことを物語る。
戦争を通じて、福岡平野を中心に一大勢力を築いたのが「奴国(なこく)」だった。中国の歴史書「後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)」は「建武中元2(西暦57)年、倭の奴国が朝貢し、光武帝が印綬を授けた」と記述。印綬は、福岡市の志賀島(しかのしま)で江戸時代に見つかった「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印(国宝)とされ、中国と外交を繰り広げた奴国の姿が浮かび上がる。